19


     
     更に翌日、同時刻。
     日常を取り戻した俺は、夕方にはいつもの店に顔を出した。
     
     その日の午前中に、絵は仕上がっていた。
     
     取引先の画廊には遅筆で知られた俺らしくもない仕事振りだ。
     やればできるということらしい。
     猛烈な勢いの素描の後は一日塗って二日休み四日目に一日目の直しを入れるといった
     普段の俺の作業展開は、つまりはやる気が薄いのだという事実が証明されたようでもあり、
     今回の妙なオーダーの仕上り具合は、俺的にはどうも心地が悪い。
     まあ普段の俺をあの赤い長髪が知るハズはないし、画廊にも黙っていれば済む話だが。
     
     重厚なドアを押し開けたその先は、普段通りの優雅かつ閑散とした店内。
     しかしいつもとは多少の違和感を放ち、レジ脇のカウンターには中年の男達が陣取っていた。
     年の頃は40代、外回りの営業風な上下揃いのスーツ姿のと、コーデュロイのジャケットの二人組。
     コーデュロイの方は年齢の割に軽薄に見えない事もないが、物腰は落ち着き、粗暴さは感じられない。
     一方、制服の白シャツに蝶タイの責任者の方はといえば、
     カウンターの内側で長髪を掻きながら2人に何やら弁明を続けている。
     
     ヤツには特に声もかけず、俺はフロアの奥まで歩き、いつもの窓際の席に腰を下ろした。
     ここからは駅前の雑踏が良く見える。
     毎日同じ時刻に同じ風景を見るのは嫌いじゃない。
     何故だろう、同じ構図の中で展開する日々の差違にささやかな生を感じるからだろうか。
     
     「いらっしゃいませ。」
     
     俺が席に付くやいなや、ギャルソン仕様のウェイトレスがローラー靴で滑って水を運んだ。
     大理石の柱や白いグランドピアノ等々の洒落た内装にそぐわないこの店のあれこれにも
     俺は既に慣れていた。
     
     「いらっしゃい。昨日は来なかったね。」
     「ああ。」
     「チーフが寂しがっても〜大変。」
     「・・。」
     「っと余計な事言うとまた怒られちゃう。」
     
     バタバタと身を翻したチビの後ろ姿を、俺はふと呼び止めた。
     「オイ、揉め事か?。」
     
     カウンター付近で客につかまったままのヤツを俺が遠目の視線で指すと、
     振り返ったウェイトレスは俺を見てニッ、と笑った。
     
     「こないだオイラが知り合いのお兄ちゃんにピアノ弾いてもらったでしょ。
     そん時居たお客さんが今日もやってるんだと思って友達連れて来たんだって。
     次はいつって聞かれても次なんて無いじゃん?、それでチーフ困ってんの。」
     
     大したトラブルでもないらしい。
     しかしそういえば、大したトラブルであったとしても俺が心配してやる筋合いも無い。
     つまらない事を訊ねた自分のボケ振りを呪いつつ、俺は適当に肯いて見せた。
     
     「・・と、オーダー。いつものでいい?。」
     「ああ。」
     
     いつものコーヒーを待つ間を潰して、煙草をくわえて火を点ける。
     そういえば悟一は相変わらずの遅刻らしい。
     毎回遅れるということは待ち合わせの時間を遅くすればいいのだろうかなどと
     今更の事を思いつつ、暮れゆく街並みを見下ろしてみる。
     駅前はいつも人待ち顔に立ち尽くす人間であふれている。
     誰かを待つなどという厄介事は、俺ならご免だと思った後に、
     そういえば俺も悟一待ちだと思い付いた。
     
     またしても、俺らしくもない。
     
     「悪ィ、遅れた!!。」
     
     重厚で上品なドアを叩き開け、いつもの台詞で店内に走り入るジャージ姿。
     俺の定位置を知っている悟一は、脇目もふらず真っ直ぐに俺の目前に駆け込んだ。
     
     「悪ィ、また遅れた。」
     「ああ。」
     「明日はもっとがんばる。」
     「何を。」
     「もっと速く走る。」
     「できんのか?」
     「がんばる。」
     「・・出る時間を五分早くしろ。」
     「そっか!。」
     「・・。」
     
     それから悟一はいつも通りに主食めいた品書きを2人前オーダーし、
     料理を運ぶウェイトレスとくだらない口論をし、2皿を同時に頬張りながら
     部活のコーチがカツラから植毛に切り換えた話なんかを身振り手振りを交えて俺に話した。
     
     悟一が2皿を平らげるのと俺が一杯のコーヒーを終えるまでの所要時間はほぼ同じ。
     俺達がそれぞれの用を終え席を立つ頃になっても、長髪はカウンターの二人連れにつかまったままだ。
     ヤツの代わりにレジに立ったウェイトレスに札を渡し釣りを待つ短い間、
     俺は何となくカウンターの客を観察した。
     短い顎髭にコーデュロイのジャケットのと、外回りのサラリーマン風情という組み合わせは、
     自称芸術家と雑誌編集者、もしくはTVディレクターと営業アシスタントと言ったところだろうか。
     至上のテクニックで武装したあの男の鍵盤は、成程そういう類の人間を惹き付けたらしい。
     
     「ありがとうございました。」
     
     ウェイトレスの明るい声音に送られてドアを押し開けた俺の背に、
     ヤツの大声が届いた。
     
     「宗蔵!。」
     
     詰め寄る二人連れを押しのけてカウンターに身を乗り出したヤツが、
     振り向いた俺を見つめていた。
     
     「どう?、進み具合。」
     「できてる。」
     「え?。」
     やたらと上がりの早いオーダーが照れ臭いようでもあり、
     俺はソフト帽を握った片手を振り上げてはそいつを目深にかぶったりしてみる。
     
     「アレは、仕上がった。」
     「マジで?!。」
     「ああ。取りに来るか?。」
     「行く!。行きマス!!。」
     
     目深く乗せた帽子のツバを更に片手で引き下げて、俺は肯いた。
     俺のエゴを吐き出した私的な心象風景が俺以外の人間に求められるというのは、
     何というのか、妙な気分だ。
     
     「いつ?、いつなら行っていい?。」
     「いつでもいいさ。好きな時に来い。」
     
     
      ◇◇◇
     
     
     確かにいつでもいいと言ったのは俺だ。
     しかしさすがに、その日の夜に来るとは思わなかった。
     
     「ちょっと早かったかな〜。あはは。」
     
     今朝仕上がったばかりのキャンバスは運搬用の包装も未だ手つかずで、イーゼルに鎮座させたままだ。
     作業部屋にヤツを招き入れると、俺は描きかけの風情のそれを黙って顎で指した。
     
     ヤツは吸い寄せられるようにキャンバスの前に立つと、そいつを凝視したまま動かなくなった。
     俺にとっては慣れた赤である長髪がヤツの横顔を覆い隠すから、俺にヤツの表情は見取れない。
     
     俺の原風景とも言える狂った赤が
     本当に他人の興味を惹くものになり得るのかどうか、俺は未だに半信半疑だった。
     本音を言うならば、完成画を示した段階で見た者はうんざりするだろうと予感していた。
     それならそれで構わない。
     いやむしろ、そうあるべきだ。
     何故ならば、この赤は完璧に俺自身の問題の表出なのだから。
     
     (「アンタ、怒ってたんだな。」)
     
     描きかけの素描の前で、何故ヤツがそう呟いたのかは分からない。
     だが言われてみれば、確かに俺は怒っていた。
     愛する存在が逝くのをただ立ち尽くして見送った無力なガキに、俺は怒り続けていた。
     おそらくは血の赤に翻弄されて、俺は俺自身の怒りを見失っていた。
     
     俺の過去を知るはずもないヤツがその事実を言い当てたとは思えない。
     だが、ヤツの言葉をきっかけとして、俺はようやく俺の赤の意味に気付いた。
     そして本来なら塗りつぶすはずの狂気を敢えて仕上げる課程に於いて、
     俺は遙か以前から蓄積させてきた想いを吐き出していた。
     
     だから、仕上がる頃には、もう充分だと、そんな気分になった。
     
     ガキの俺を今更どれだけ罵倒したところで、失ったものが戻るわけでもない。
     
     もはや振り返らないとするなら。
     これから俺には一体何ができるだろう。
     
     右上から左下に降ろした対角線を境に、右下には細密な建造物。
     左上には何も無い空。
     赤茶けた建造物を際立たせるはずの青空には敢えてキャンバス地の白を残した。
     何も無いその場所に未来の光を象徴する為に。
     現前に存在する空の青より、一層輝く青を予感する為に。
     
     この絵に限っては素描から本塗りまでの課程がまさに俺の私情のカタマリだ。
     だから、そんなものは他人にとっては何の薬にもならない以上にむしろ目の毒だ。
     
     「とまあ、予想通りの気違い沙汰に仕上がった。」
     「・・。」
     「どうだ、持ち帰るまでも無いだろう。俺としては制作過程を楽しんだから悔いは無い。」
     「やっぱダメ・・なの?。」
     「あ?。」
     「売ってくれるって言ったじゃん!!。」
     
     突然振り向いたヤツの剣幕に押され、俺はつい後退った。
     
     「確かにまだ金そろって無いけど・・分割で!。36回!!。」
     「イヤ・・。」
     「12回!。」
     「だから・・。」
     「6回!、イヤ3回でどうだ!!。」
     
     俺が言葉を漏らす度に分割回数が減っていく。
     俺は口がきけないままに黙り込み、俺ににじり寄るヤツとしばし無言で睨み合った。
     
     「3回。」
     「・・金はいい。」
     「へ?。」
     「いらん。」
     「うそ・・。」
     「気に入ったら持ってけ。」
     「うそお。」
     「嘘でどうする。」
     
     一体何故に俺達は喧嘩腰で睨み合っているのだろうか。
     しかしそういった不自然さを告げる単語も見つからず、
     俺はただ俺を押し倒しそうな勢いの大男に負けないように、睨み返すので精一杯だ。
     見据えるその視線の位置が俺より幾分上のせいで、俺の方が形勢不利な気がしないでもない。
     俺より背が高いのはヤツのせいではないにしろ、微妙に腹が立つ。
     
     「・・マジで?。」
     「ああ。そんなのが気に入るとは妙な男だな貴様。」
     
     俺を見つめて数回瞬きを繰り返した後、ヤツは再度キャンバスに向き直った。
     無意味な睨み合いから解放された俺は、ヤツの視界の外でこっそりこめかみを押さえた。
     
     「スゲエよコレ。」
     「俺にはそうは思えんが。」
     「分かんないの?。」
     「・・。」
     「貰うよ?、ホントに。」
     「だから好きにしろ。」
     
     「ありがとう。」
     
     ヤツの短い台詞が、妙に真摯に響いた気がした。
     俺は具合の悪いような表現し難い想いに衝かれ、ヤツの背後で頭などを掻いてみる。
     
     「あのっ!!。」
     
     叫びつつまたしても突然振り向いたヤツの勢いに押され、
     俺は反射的に後退った。
     
     「普通に動け貴様!。驚くだろうが!。」
     「あ。ワリ。・・で、あの。」
     「寄るな。寄らずに話せ。」
     「俺・・。」
     
     寄るなと言うのに一歩踏み出したヤツの動きに反応して、俺の片足は自然に一歩引いていた。
     しかし俺の背は画材置きの小台に当たり、そこで俺の動きは止められた。
     逃げ場の無い俺に何故かヤツが手を伸ばした。
     「!?。」
     無理に身体を引いた俺の腰に押されて小さな物置台はひっくり返り、
     筆や絵具といった台上の小物が細かい騒音とともに辺りに散った。
     
     一体どういうワケなのか突然追い詰められる羽目になった俺は、
     半分無意識に後ろ手に触れる何かを探しては握った。
     ささやかな自己防衛本能といったところだろうか。
     小物が床に散る直前に、俺が小台から取り上げたのはパレットナイフ。
     俺がそいつをヤツに突き付けるのと、ヤツが俺の肩を引き寄せるのは同時だった。
     俺の突き出した銀の刃先が、ヤツの顎の下の皮膚に触れた。
     
     「どういうつもりだ。」
     「俺、殺されちゃったり・・する?。」
     
     突き付けられた凶器に怯える気配もなく、ヤツは掴んだままの俺の肩を離さない。
     質問したのは俺なのに、ヤツは答えないどころか間の抜けた問いを返した。
     聞くまでもなく、画材のパレットナイフで人が殺せるハズもない。
     
     「・・まあ死にはしないだろうが。」
     「じゃ、我慢する。」
     「は?。」
     「我慢するから・・その・・お願い。」
     
     フザけたヤツの台詞は俺の苛立ちに拍車をかけた。
     俺は手の中のパレットナイフに力をこめた。
     決して鋭利な刃先ではないそれが、瞬間ヤツの首筋にめり込んだ。
     ヤツは「ぐ」と小さく呻いて仰け反った。
     なのに俺の肩を離さないのは何故か。
     
     「ち、ちょっと待った!。」
     「ナメてんのか貴様。」
     「て・・手加減してね。」
     「野郎・・。」
     「じゃいい。手加減しなくていい。」
     「いいのか。」
     「いい。・・イヤやっぱダメ。イヤ!。やっぱイイ。いいデス。」
     「・・。」
     
     いい加減バカバカしくなった。
     
     俺はヤツに突き付けた刃物を引くと、後ろ手に放り投げていた。
     俺の視界の外で床に落ちたパレットナイフは、フローリングの表面でカランと乾いた音を立てた。
     
     それから俺を引き寄せたヤツの腕を、俺は払いのけなかった。
     
     
     何故人は他人を求めるのだろう。
     何故自ら厄介事に身を投じるのだろう。
     
     何故俺はサルをあの豪邸から連れ出し、
     何故コイツは今俺を抱き寄せるのだろう。
     
     俺の狂気と同じ色にその髪を染め、
     キャンバスの狂った赤を目前に俺の古い想いをつぶやいたこの男は、
     全てを知っているのだろうか。
     
     抱き寄せられた俺の視界の両脇に赤のカーテンを引くように、降りかかる紅の髪。
     ふと目を伏せた俺の唇に、ヤツの感触が重なった。
     過去から連綿と続く俺の時間が、その時初めて止まった。
     
     
     それから、ヤツは両腕で俺を抱き締めたまま、俺の首筋に顔を埋めた。
     腕の中にある俺の存在を、敢えて確認するみたいに。
     
     
     「何故だ。」
     
     「好きだから。」
     
     
     
     - 続 -
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