18


     
     「そう、用事を忘れるところでした。」
     
     作業部屋に充満した薄寒い沈黙を振り切る為か、
     男は不意に明るい声を上げた。
     
     「吾一が僕にお茶淹れてくれるって言ってまして。」
     「無理だからやめとけって言ったのにな。」
     「心配だから僕が淹れようと思うんですけど。」
     「勝手にしろ。キッチンは好きに使え。」
     「モノの場所が分かんないんですよね。」
     
     俺に教えろと言うのか面倒だから断る。
     言葉には出さず俺は上目遣いの目線だけで確実にヤツに意志を伝えた。
     それを受け取れない程の間抜けではないクセに、
     ヤツは一見和やかな微笑みを浮かべ、俺の思惑を完璧に受け流した。
     
     「一緒にお茶しませんか。ちょっと休憩も悪くないでしょう?。」
     「・・。」
     
     何故か完璧にヤツのペースだ。
     
      ◇◇◇
     
     「うわあ広くて綺麗なキッチンだなあ。
     全然汚れてないし使った痕跡すら無いし。」
     
     嫌味か?、嫌味なのか?。
     
     問いただすのも面倒だし、俺はキッチンの内側で隣に立つヤツに背を向けたまま
     シンクの下を覗いたり高い位置の飾り棚を開け閉めしたりして
     俺自身見覚えの薄い茶葉と急須をどうにかこうにか探し当てた。
     
     存在すら忘れていた開封前の茶葉の包みを
     ヤツが研究室の助手めいた手付きで受け取った。
     光る眼鏡越しの視線でそいつを入念に観察した後、ヤツが所見を述べた。
     
     「賞味期限が三年前に切れてます。」
     「そうか。」
     「まあ、お茶ですからね。問題はないでしょうけど。」
     
     言ってる内容とは裏腹にヤツの意識と興味は既に茶葉を切り捨てたらしい。
     ヤツは茶葉の包みを手にしたままで辺りを物色し始めた。
     
     「あ、コーヒー豆は新しいじゃないですか。」
     「毎週買ってるからな。」
     「じゃコーヒーにしましょう。」
     「美味くないぞ。」
     「何故。」
     「さあな。豆は悪くない。と思う。多分。」
     「もしかしてコレで淹れてます?。」
     
     数年前から愛用しているコーヒーメーカーをヤツが指さした。
     特に上等なモノでもないが、それも別段壊れているとは思えない。
     
     「ああ。ソレだ。」
     「ふうん。あの、僕が手で淹れてみていいですか。」
     「好きにしろ。」
     「じゃそうします。ちょっとダイニングで待っててくださいね。」
     
     あれを出せとかそこに居ろとか、何故俺が細かい指示に従って動いているのか。
     釈然としないようなだからといってさしたる不便もないような、
     一体これはどういうアレだろうしかしたいした問題でもないがなどとブツブツ呟きながらも、
     俺は結局指示通りにダイニングの背の高い椅子に腰を下ろしていた。
     
     俺の向かいでは、吾一が数式のプリントに取り組んでいる最中だ。
     「ヒント」とか「備考」とか、紙の端々に書かれた端正な文字はヤツのものだろう。
     いくらバイトとは言え、こんな気疲れしそうな職種は俺ならゴメンだと思う。
     
     吾一はと言えば、真向かいに腰を下ろした俺を気にかける様子も無く
     プリント用紙を睨み付けては頭をひねっている。何かしら考えているのだろうか、
     少なくとも多少の集中力はあるらしい。
     
     
     一応見た目は勉強中の吾一をぼんやり眺めて待つこと5分程度、
     ヤツはキッチンから再登場した。
     手にしたトレイには3つのコーヒーカップが乗っている。
     
     「砂糖とミルクは?」
     「ブラック。」
     
     俺は目前に置かれたマグカップを手に取った。
     飲みたいというよりは、特に用事も無いこの場所で手持ち無沙汰なだけだ。
     ヤツは吾一の隣、つまり俺の斜め向かいに腰を下ろすと、
     不必要に真剣な面持ちで俺を見据えていた。
     
     睨まれつつ飲むコーヒーというのもどうかと思う。
     適当に口をつけたら早々に退場するつもりで俺は一口流し込んだ。
     「?。」
     しかしそれは、毎朝の慣れた味覚とはまるで別の何物かだった。
     その辺を形容する語彙は俺の中に無い。
     そんなわけで俺は最高に端的な感想を述べた。
     
     「美味いな。」
     「だろ!。戒ちゃんのお茶美味いんだぜ。」
     
     何故か吾一が得意気だ。
     しかし吾一に本当の意味で味が分かっているとは思えない。
     両手で抱えた吾一のカップの中の液体は黒というより白に近い。
     つまり殆ど牛乳だ。それにこれは茶でもない。
     
     「美味いな。同じ豆か?。」
     
     つい確認した俺の視線を受けて、ヤツが満足そうに微笑んだ。
     取り繕うでも受け流すでも皮肉でもないヤツの稀な笑顔は、
     何故か俺の印象に余韻を残した。
     
     「豆がマンデリンの細挽きだったから、酸味と苦みの少ないのが好みかと思いまして。」
     「ああ。」
     「豆は多めで蒸らし時間短め、そして浅い加減に出しました。」
     「へえ。」
     「嬉しいな、味の違いが分かってもらえると。」
     
     どうやら手をかければウチのコーヒーもマシな味になるらしい。
     多少の感慨をこめて俺はマグカップを再度口に運んだ。
     
     「彼も『ウマいね』なんて言うんですけど。ホントのところどう思ってるんだろ。」
     「彼?。」
     「僕の同居人。ここにも来たでしょう?。」
     「ああ。ヤツか。」
     「ええ。彼、毎回きっちり半分牛乳入れるんですもん。」
     
     研究職めいた指の長い手でカップを抱き乍ら、
     ヤツはクスクスと肩を揺らして笑い出した。
     今の話の一体どの辺が面白いのだろうか。
     
     「オレも牛乳たくさん!。」
     「吾一は気にしないで。僕がミルク沢山入れたんですから。
     成長期はカルシウム取らないとね。」
     
     目の前の仲良し師弟を見るともなく見つめながらコーヒーを啜る俺に、
     ふとヤツが小さく首を傾げては問いかけた。
     
     「貴方は彼に多少興味があるのかと思ったんだけど。」
     「俺が?」
     「ええ。あなたが。」
     「『興味がある』?。」
     「でも、違うのかな。」
     
     それは要するに何の話なのか。
     
     「もしかして、興味があるのは彼の方だけなのかな。」
     「何の話だ。」
     「だとすれば、僕にはそっちの方がショックかもしれない。」
     
     これらは一体、ヤツの独り言なんだろうか。
     
     「なんてね。」
     「・・フザけてんのか貴様。」
     「そうだったら良かったんですけど。僕としても。」
     
     不愉快さをそのままに眉をひそめて睨み付けた俺に、
     ヤツは肩をすくめては中途半端な微笑を返した。
     
     「分かります?、僕が言ってる事。」
     「全く分からん。」
     「そうですか。じゃいいです。」
     
     俺達の会話の内容を気に留めることもなく、
     吾一はヤツに今日の模試の首尾なんかを話し始め、
     それからヤツも温和な教師の顔で吾一に模範解答例なんかを話し始めた。
     
     そんなわけで俺は、コーヒー片手に再度対面の仲良し師弟を見つめる羽目になった。
     しかし俺の頭はといえば、ついさっきのヤツの台詞を反芻し続けていた。
     
     そして、おそらくあるジャンルに関しては人一倍鈍い俺の頭にも
     各人の感情の向きの構図とでも言うのだろうか、とにかくは
     今まで見えなかったそれぞれの想いのベクトルが、
     想像つかないでもないような気がしつつあった。
     
     「全く分からん」と言ったのは、嘘だったかもしれない。
     
     
     「なあ、角度は360度までって言ってたじゃん。」
     「ええ。」
     「じゃsin600°なんてオカシイよ。」
     「確かに意地悪な設問ですね。」
     「だろ!。」
     「この場合、600°=360°+180°+60°ってことで。」
     「?。」
     「分かります?、正弦値は基本周期360°で循環するでしょう。」
     
     渋い顔で固まった吾一に図解する為に、
     ヤツはプリントの切れ端に2次元のグラフを走り書きした。
     X軸方向に波状の正弦値がY軸の1と−1の間を上下する。
     
     無駄の少ない動作で一連の線を書き終えたヤツのペン先は、
     吾一の反応をうかがう間、無言で歌う指揮棒のように空中で揺れる。
     
     器用な男だ。
     
     いつになく薫り高いコーヒーをすすり乍ら、
     俺はそんな事を思う。
     そういえばあの繊細な指先が、長髪の男の店で鍵盤を叩いていた。
     
     堅い音だと、そう思ったのを覚えている。
     まあ、おそらくは万人が繊細で柔らかな音色と評するだろう。
     あの柔らかさはソフトな音質という技術を駆使した結果としての柔らかさだ。
     ヤツ自身もおそらくそれを意識しているだろう。
     
     狂った赤を無難な色彩で塗り込めてきた俺のように、
     ヤツも何かを内側に持て余しているのだろうか。
     
     「600°だとこの辺ですけど。循環のパターンが分かるかな?。」
     「なんとなく。」
     「じゃ、ゼロ近辺で600°とY値が同じになるのはどこでしょう。」
     「ここ。」
     「惜しい。どちらかというとこっちが近いでしょ。マイナス値だけど。」
     「オレ、マイナスってなんか嫌。」
     「イヤ好き嫌いじゃなくて。」
     
     多少の困惑を示すのか、ヤツの指先に捉えられたままのペンの先が再度歌うように揺れた。
     不思議な生き物を観察する気分でか、そう言えば俺はさっきからヤツを見つめ続けていた。
     漆黒の髪の下、更に眼鏡のシールドに守られて感情を伝えないヤツの瞳が、
     ふと、俺の視線に呼ばれるように振り向いた。
     「もしかして」とヤツが呟いた言葉が俺に向けられたものだと、
     俺はその時気付かなかった。
     
     「僕だったりして。」
     
     無言でコーヒーをすすった俺に、ヤツは視線を強めて確認を入れた。
     
     「聞いてます?。」
     「あん?。」
     「貴方が興味があるのは、むしろ僕だったりして。」
     「・・まさか。」
     
     「ですよね。」
     
     白々とした場の雰囲気を更にブチ壊すためか、
     ヤツは机上のマグカップを手に取ると、
     茶の様な音を立ててコーヒーをズズっとすすった。
           
     
     - 続 -
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