17


     
     翌日、同時刻。
     俺はいつもの店に顔を出さず、描きかけのキャンバスの前にいた。
     悟一には適当に出前を頼んである。
     
     自動書記まがいの勢いの素描とは対照的に、普段の俺の塗りはあり得ない程遅い。
     一日塗って二日休んだりするせいだ。
     しかし今回はどうも勝手が違うかもしれない。
     
     普段なら、素描が終わった時点である意味俺の絵は終わっている。
     その後は買い手の好みに合わせて小綺麗に仕上げるという技術的な作業になる。
     だが今回に限っては妙なオーダーを受けたせいで
     塗りに入っても俺の絵は未だ俺の絵のままであり、
     つまりは小気味よく狂ったままだった。
     
     狂った紅に混じえて、茶系で建造物に陰影を与える。
     本来のそれとはもはやまるで別物の影を孕んだ紅い街並みは、
     高度成長期に林立した無骨で重量感のあるコンクリートが
     年月を経て朽ち果てたようにも見える。
     
     
     キャンバスの前の丸椅子に浅く腰掛け、筆を持つ腕を平行に走らせる俺の耳に
     ふと玄関のチャイム音が響き、その後にはインターホンから男の声が届いた。
     客の想像はつく。
     前の晩に悟一に電話させて呼んだ。
     
     じきに奥のダイニングからバタバタと廊下を駆ける音が響き、
     俺の耳にも「戒ちゃん!」と高揚した悟一の声音が届いた。
     俺が出迎える必要も無いだろう。
     
     俺はひたすら作業に没頭していた。
     俺自身が描き出したにもかかわらず、
     現出した風景は奇妙な現実感を伴い俺を取り込もうとする。
     その正体不明の引力に任せて俺は俺自身を預ける。
     そして敢えて入り込む。
     唯一俺が俺であり得る虚数空間へ。
     
     
     「なあ!!。」
     
     ノックもなしにドアを開けてたたみかけるのは悟一のクセだ。
     ドアを開ける前にノックしろと何度か教えたがどうしてもヤツは身体が先に動くらしく、
     ドアを開けたあとに開いたドアを叩いたりして神経を逆撫でするために、
     「ノック」という躾はあきらめた。
     唯一「お前は作業部屋に入るな」という指示は身に付いたらしく、
     悟一は毎回部屋のヘリに爪先を乗せ、身を乗り出しては俺を呼ぶ。
     
     「なあ、戒ちゃんにお茶出していい?」
     「お前が?。」
     「うん!。」
     「できんのか。」
     「分かんないけど。やってみる。」
     「やめとけ。茶碗割って火傷するのがオチだ。」
     「・・ん。」
     
     俺は振り向きもせずに答え、じきに背後のドアは静かに閉められた。
     家庭教師に茶を出すなどと、悟一にしては良く思い付いたものだと思う。
     イヤ本来なら俺が思い付くべきなんだろうか。
     まあ・・いい。
     ほっとくと決めた。
     
     一度は邪魔の入った作業に再び取りかかるべく、
     膝の上に落としたパレットを持つ手を軽く上げた時、
     再度背後でドアの開く気配がした。
     
     「クドイ!。接待の前に勉強しろ。」
     
     答えも無いままに、背後の気配はただ室内に入り込み
     キャンバスの前に座り込む俺の脇を素通りした。
     それは、前日俺と怒鳴り合ったあの男だった。
     
     「うわあ。」
     
     俺が入れとも入るなとも言う前に男は室内に入り込み、
     何かに導かれるように部屋の突き当たりまで歩を進めた。
     窓枠下の壁に立て掛けたままの一枚の完成画、男の足はその前で止まった。
     
     男は絵の前で自身の腕を固く抱いては佇み、あとは不動で風景画に魅入った。
     不躾な闖入者に文句を言うつもりが、ヤツが余りに真剣に絵を眺めるせいで、
     俺は何となく文句を言い損ねていた。
     
     作業続行の意志も失せて、俺は足元にパレットと筆を投げ置くと、
     ポケットから取り出したマルボロをくわえては火を付けた。
     慣れた煙を深く吸い込みながら、俺は絵に魅入った男を見つめていた。
     ホストまがいの紅い長髪とは対照的な黒い短髪の神経質そうな横顔。
     そういえばコイツはあの店で鍵盤を叩いていたと、俺はふとそんな事を思い出していた。
     
     「スゴイですねコレ。」
     「そうか?」
     「ええ。」
     「どこが。」
     
     良く知りもしない相手に俺が感想を求めるとは。
     自分の言葉を不審に思いつつも、俺は男の返事を待った。
     
     「公園のベンチと路と木々と空、構図の配置が絶妙だと。」
     「フン。」
     「それに。」
     「それに?。」
     「円形の噴水が手前にあって風景の全面に水しぶきのフィルターをかけている。」
     「・・見たまんまを述べてどうするよ。」
     「イエ。噴水の直径からすればこの視点の位置は噴水の中央付近という事になる。」
     「まあ、そうか。」
     「そんな場所でデッサンしないですよね普通。」
     「だろうな。」
     「つまりこれはあり得ない視点だ。」
     「・・そういう事になるな。」
     「想像で描いたんですか?」
     
     絵に釘付けだった男が初めて俺に振り向いた。
     感想を訊ねたはずが逆に俺が質問されるという不条理さに、
     俺は斜視気味に煙草の煙を細く吐いてみる。
     
     何となく具合が悪いように感じるのは、
     その絵に関しては適当に小綺麗に仕上げればいいだろうという思惑の元、
     写生に出かける手間を省いたという事実を見破られたせいだろうか。
     
     「ああ。構図も色も何もかもデッチ上げだ。」
     「すごいな。」
     「スゴイ?」
     「こんな綺麗な世界が貴方自身の中にあるなんて。」
     「あん?。」
     
     人をナメたその台詞にはイヤミの一つでも返すつもりだった。
     しかしヤツの深い瞳は、真摯とも言える静謐さでただ俺を見つめていた。
     俺は口先まで出掛かった皮肉をつい呑み込んで、無駄に咳払いなんかをした。
     
     「これはどうだ。」
     「はい?」
     
     俺は描きかけのキャンバスを視線だけで指した。
     俺の目前に展開する狂った赤の街並み。
     「綺麗な世界」などという歯の浮く台詞で俺の内面を評したヤツにこそ
     俺の気違いブリを見せつけてやると、俺はそんな底意地の悪い気分になったのかもしれない。
     
     俺の視線に呼ばれて、ヤツが俺の隣に並んだ。
     塗り始めて陰影のついた赤茶けた街並みを目にして、ヤツはしばらく黙り込んだ。
     ヤツが言葉を選ぶ沈黙は、この場の雰囲気をやや窮屈にした。
     
     「これは・・大作だと思うけど。」
     「けど?。」
     「僕には、ちょっと。」
     「はっきりしねーな。」
     「ええと、その。」
     「別に無理に感想を言えとは言わないが。」
     「僕には、痛過ぎる。」
     
     俺が手にしたマルボロは、気付けばフィルター付近まで燃え尽きていた。
     
     「成程な。」
     
     俺は手近な灰皿で短い煙草を揉み消しながら、同じ台詞を繰り返した。
     成程。
     それはおそらくこの男のストレートな想いだろう。
     部屋に入って真っ直ぐにあの風景画の元へ歩み寄ったこの男には、
     俺の赤の街並みは、狂気の沙汰以外の何物でもないに違いない。
     
     「そんな絵を描くのって・・その・・」
     「何だ。」
     「ええと。」
     「言いかけたんなら言え。」
     「辛くないでしょうか。」
     「ツラい?。」
     「ええ。」
     
     それは完璧に思いがけない見解だった。
     意表を衝かれた気分で俺は俺自身に問いかけてみた。
     果たして俺は辛いのかどうか。
     
     「そうだな・・どっちかって言えば」
     「どっちかって言えば?」
     
     「気分いいぞ?。」
     
     ヤツは答えなかった。
     
     妙なタイミングで忍び込んだ突然の沈黙に押されてか、
     俺は俺の脇に立つ男を見上げた。
     ヤツも困ったようなどうでもいいような、中途半端な表情で俺を見下ろしていた。
     
     「オカシイか?。」
     「イエ。気分がいいのは結構な事かと。」
     「ハ。」
     
     何とも締まらない会話だ。
     それからヤツは曖昧に笑い、俺は会話の意味不明さにそっぽを向いて溜息を漏らした。
     
     
     どいつもコイツも、
     妙なヤツばっかりだ。
           
     
     - 続 -
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