16



     風呂上りの濡れた髪をタオルで適当に掻き回しながら、
     俺はダイニングの冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
     飲みたいのかどうかというより単に毎晩の習慣だ。
     
     悟一の家庭教師とその連れの長髪が帰った後の静まり返った空間で
     俺はこの場所本来の空気を取り戻す為にも、俺の日常を滞りなく連ねようとしていた。
     
     しかしその決意に水を差すかの如く、
     リビング兼キッチンの背の高い椅子には悟一がうなだれたまま腰を下ろしている。
     いつもなら子猿はもう寝る時間だ。
     
     かけるべき言葉も探せないままに、俺は缶ビール片手に悟一の脇をすり抜けた。
     
     朝食用の机セットの背後、来客用ソファに俺がどっかり腰を下ろすと、
     背の高い椅子に腰をかけて足を揺らす悟一と俺とは背中合わせになる。
     背中越しの思惑は漠然と測れないこともないが、
     声をかける代わりに俺は手の中の缶のプルタブを引いて、冷えたビールを一口あおった。
     
     酔いもしない程度の薄いアルコールだが、別段酔いたいわけでもない。
     不自然な静寂の間を持て余して窓外に視線を流せば、眼下に広がるのは一面の夜景。
     地上12階建ての高層マンションから見下ろす夜の街には原色の光が渦巻いている。
     
     「なあ、宗蔵。」
     「あ?。」
     「あの・・さ。」
     
     俺達は背中合わせのままぼそぼそと
     お互いが独り言のように話した。
     
     「オレ、馬鹿でゴメン。」
     「治せない事を謝るな。」
     「ん。」
     
     昼と夜、眼下の街並はまるで違う顔になる。
     建造物の緻密な直線の三次元縦横配列に隠蔽された欲望と情念は、
     カタチの見えない夜にこそ、その本性を垣間見せる。
     眼下に瞬く色とりどりのネオンと動き回る車のライトは、あたかも飢えた浮遊霊の風情だ。
     
     俺は街の夜の顔を知っている。
     だから、右側から見たら見えないはずの左側の顔をも平面に描き出すキュビズムのように、
     俺が描く昼の街並みにはおそらく夜の表情もが染み出している。
     
     「なあ。」
     「あ?。」
     「それで・・さ。」
     
     俺は特に美味いとも思わない缶ビールをあおった。
     悟一が言いかけている内容には見当がついていた。
     前の家庭教師を引き続き雇うかどうか、俺が直接会って決めると悟一には言い渡していた。
     授業とやらを一見した結果、悟一に家庭教師が必要だとは骨身に染みて分かったが、
     その家庭教師と俺は先刻机をひっくり返して怒鳴り合ったばかりだという事実からすれば、
     あの男を引き続き雇う確率はかなり低いと考えるのが普通だ。
     
     その辺を俺に確認するのを躊躇って、
     悟一は俺と背中合わせにしょんぼり腰を下ろしているというわけだ。
     
     全く不思議な奴等ばかりだと、俺は心底そう思う。
     
     何故に人は、特定のモノや他人に執着するのか。
     引き裂かれれば痛みを伴うような感情に何故自ら身を委ねるのか。
     俺の感覚からすれば迂闊だとしか言いようがない。
     平たく言い直すなら、バカだ。
     
     (「俺は今のその絵に惚れた。」)
     
     例えば。
     紅い長髪は何故か俺の素描に魅入った。
     悟一は人当たりのいい家庭教師に入れ込んでおり、
     その家庭教師はといえば穏やかな外見にそぐわない迫力で俺を威嚇し、悟一を擁護した。
     
     馬鹿ばかりだと、そう思う。
     
     俺は革張りのソファから上半身を起こし、
     目の前のガラスのテーブル上に散乱する新聞や雑誌の中からとある紙切れを探した。
     前にあいつらの部屋を訪問した際に、家庭教師の男の携帯の番号をメモしたはずだった。
     10桁の番号を書き殴った紙の切れ端は難なく見つかり、
     俺はそいつを頭上に振り上げて、悟一を呼んだ。
     
     「オイ、電話しとけ。」
     「誰に?。」
     「さっき帰ったアイツ。」
     「戒ちゃん?!」
     
     俺の背後で振り返ったらしい悟一が、俺の手から勢いよく紙片をもぎ取った。
     
     「今までの授業の頻度は。」
     「ひんど?」
     「・・今まで授業は週何回だ。」
     「二回。」
     「今後も最低二回。それ以上でも可能なら都合の付く限り来いと言え。」
     「マジ?!」
     「俺はお前には教えられん。お前のレベルに付き合う忍耐力は俺には無い。」
     「いいの?!」
     「ああ。向こうがやる気なくす前に電話しとけ。」
     「うん!。」
     
     悟一が卓上の電話機を操作する物音を聞きながら、
     俺はぬるくなりかけた缶ビールを一気に飲み干した。
     何気なく横目で眺める都会の夜景は相変わらずきらびやかで、
     化粧の濃い女の様に卑猥に官能的だ。
     上から眺める分には、まあ悪くない。
     だが決してあの光の渦中に立ち降りたいとは思えない。
     
     背後では悟一が弾んだ声で「戒ちゃん?、オレだけど」と話し始めていた。
     
     「電話が終わったら寝ろよ。」
     
     短い指示だけ残し、俺はやたらと柔らかいソファから腰を上げた。
     描きかけの絵に取り組むつもりだった。
     
     「うん。宗蔵がいいって。
     前と同じか、戒ちゃんがオッケーならもっと来てもらえって。
     宗蔵は、何だっけ、にんたいりょく無いって。」
     「余計な事は言うな。」
     「余計な事は言うなって。」
     「バカ。」
     
     そのまま立ち去るはずが間抜けた会話に腹が立ち、
     俺は振り返りざまに、受話器を耳に押し当てた悟一に空のビール缶を投げつけた。
     悟一はと言えば動物めいた俊敏さで軽く半身をひねっただけで、俺の一投を避けた。
     フローリングの床に落ちた空缶は、密閉度の高い室内で乾いた音を響かせた。
     
     「え。何でもないよ。宗蔵が俺にビール缶投げただけ。
     大丈夫、オレよけるの上手いんだ。」
     「・・。」
     
     余計な事を言うなと同じ台詞を叫びそうになったが、どうでもいいやと思い直した。
     「うん、じゃあ」と悟一が会話を終える気配を背中で聞きながら、俺はダイニングを後にした。
     作業部屋へと連なる短い廊下へと踏み出すと、自動的に気配を感知したライトが仄暗く足元を照らす。
     「宗蔵!」と、背後のダイニングから悟一が俺に叫んでいた。
     
     「宗蔵、ありがとう!!。オレ、すげー嬉しい。」
     
     作業部屋の前の廊下で投げつけられた大声に俺は何となく歩を止めた。
     しかし一体、何と応答するべきか。
     ただ思うのは、どうも調子の狂う事ばかりだという事だ。
     
     俺は手持ちぶさたに自分の肩を揉んだりしながら、
     空いた手で作業部屋のドアノブに手をかけた。
     
     
     - 続 -
     ..

Return to Local Top  .
Return to Top   .