15


     
     「失礼しま〜す。」
     
     俺はさっきから同じ台詞ばかり繰り返している。
     俺は出張ヘルスの従業員かなどと心で自分に突っ込んでみるが、
     俺のよーな図体のしかも野郎を注文する客はいない。いたら怖い。
     そんな事はともかくだ。
     
     ハニーの背を追って忍び込んだ玄関前の一室、
     そこは俺にとって、未知の世界だった。
     
     8畳くらいのだだっ広い室内には家具も何も無い。フローリングの床にただ果てしなく白い壁。
     そこここに投げ捨てられているのはキャンバスの数々。
     木の枠に張られた白い布の上には、輪郭だけ描いてやめた、そんな造形達が踊っている。
     
     辺りを見回す俺の視線は、投げ捨てられてないたった一枚の絵、
     つまり窓下の壁に立て掛けられた完成画を捉えた。
     
     『晴れた日の公園の一コマ』、そんなタイトルがつきそうな油絵。
     明るい陽射しの下、公園の噴水前で語り合う人影を含んだ光景が遠景で描かれている。
     独身貴族のOLが『まあ素敵』なんて言いながら画廊で手にしそうな、そんな小綺麗な絵だ。
     辺りに散乱する描きかけの素描とは違う種類の絵。
     
     部屋に一歩踏み込んだきり、その場の意外さに硬直したままの俺だった。
     しかしなんとか正気を取り戻し、足音を潜めて室内に入り込む。
     
     ハニーは部屋の中央付近で俺に背を向け座っていた。
     イーゼルに立て掛けたキャンパスの前で、小さな丸椅子に腰を下ろし、白い布に筆を走らせる。
     絵筆を持つ右腕は床と平行に伸ばされて、その有様がなんだかすごく芸術家っぽいと、
     俺はつまらない事に感動したりする。
     
     どうも失礼しちゃってましたなどと、できるだけ穏便な挨拶の声をかけるつもりだった。
     しかし俺が言葉を発する以前、
     ハニーに背後から歩み寄る俺の視界には、まさに今描かれている絵の全体像が飛び込んだ。
     
     紅一色で、胎動する街並。
     
     左上の何もない空と対照的に、右下の地にそそり立つ建造物の群れ。
     下書きの段階だからだろうかそれとも故意だろうか、
     緻密な建造物はフリーハンドの柔軟さで描かれているせいで、
     うごめく蠢の塊に見えない事もない。
     志向性を持つ蠢の群れは、無機質の建造物を表現し乍ら、
     おそらくは、一見そこには存在しない人間達の意識を暗喩している。
     
     「・・スゲエな・・。」
     
     宗蔵の肩に手が届く程近くの背後で、俺はただ感嘆の言葉を漏らしていた。
     勝手に部屋に入った非礼を冗談めかして詫びるとか、そんな心の余裕は失われていた。
     
     「何故貴様がここに居る。」
     
     振り返りもせずに宗蔵が呟いた。
     その際も、キャンバスの上を走る筆が止まる事は無い。
     
     宗蔵の言葉は俺の勝手な行動を非難していたが、
     今の俺には怒られたという事実すらそんなに問題じゃなかった。
     俺はただ、目の前の紅い線に魅入られていた。
     絵なんて見るつもりで見た事もない俺が。
     
     絵の中に人物は一人も見当たらない。
     視点の設定位置が高いから人が見える縮尺ではあり得ず、だからそれは自然な表現だと言える。
     しかし人が存在しないにもかかわらず、その絵は全てに於いて、余りに人的な何かを訴えていた。
     
     「アンタ、怒ってたんだな。」
     
     自分でも意味が分からないような、そんな台詞を俺は無意識に呟いていた。
     俺自身謎でもある漠然とした言葉に、動き続けていた宗蔵の筆先がふと止まった。
     
     俺は何故か小さなガキの頃を思い出していた。
     初めて惚れた女に殴られたり蹴られたりして過ごした最悪の日々。
     あの頃、俺は怒っていたんだと、
     考えてみれば至極当然の結論に、気付けば何故か今ようやく辿り着いていた。
     
     俺が胸の奥深くに閉じこめたのは哀しみややるせなさだろうと、
     俺は今までそう思っていた。
     惚れた女に愛されないという胸の痛み。
     ガキの俺にとってその女っつーのは、母親だったわけだけど。
     だけど、俺が閉じこめたのはそれだけじゃなかった。
     
     俺は、怒っていた。
     
     俺が求めたものを与えない女に。
     俺が求めたものを与えない世界に。
     
     そしてそれは多分、俺自身が
     求めるものを与えられるのにふさわしい存在ではないせいだろうと、
     俺は気付いていた。
     
     だから俺は、怒っていた。
     何に対してよりも激しく、
     俺自身に向けて。
     
     行き場の無い幼い日の怒りは、幼さという不器用具合ともあいまって、
     誤魔化す手段も得られないままに心の奥に押し込まれていた。
     別にたいした事でも無いと、ありふれた失恋話の一つだと、
     自分自身に言い聞かせながら。
     
     
     もし。
     もし俺にもこんな風に俺自身を吐き出す方法があったなら、
     俺はもっと自由になれたんだろうか。
     
     
     「スゲエな、アンタ。」
     「何がだ。」
     「ソレ。」
     
     もうガキじゃない今でさえ、感動を言葉で伝えるには、
     俺は不器用過ぎた。
     
     「・・妙な男だな。貴様。」
     「そお?。」
     「コイツはタダの下書きだ。」
     「そうなん?。」
     「ああ。デキてんのはあっちだ。」
     
     俺に背を向けたままの宗蔵が顎で示した先は、
     窓下に立て置かれたあの小綺麗な公園の風景画。
     俺にはどうしても、目の前の絵と同じ人間が描いたものとは思えない。
     
     「違う絵みたいだ。」
     「違う絵だからな。」
     「イヤそうじゃなく。」
     
     俺は俺自身の舌足らずブリを呪って、長髪をやたらと掻き回した。
     しかしそんな動きで何か気の利いた文句が浮かぶはずもない。
     
     「コレも出来上がった頃にはあんな風になるさ。」
     「そうなん?。」
     「ああ。売り物だからな。」
     
     それは衝撃的な事実だった。
     例えるなら、べっぴんの彼女に『私整形してたの』と告白されたようなもんか。
     イヤ、全然違う。
     
     「なんで?。」
     「あっちの方が『綺麗』だろ。」
     「・・うん。」
     「そうでないのは売り物にならん。」
     「売るの?」
     「ああ。別に金に困ってるわけでもないが。俺は仕事だと思ってる。」
     
     「・・死んじまう。」
     「あん?。」
     「そしたらアンタがココに描き出した想いが死んじまう。」
     
     上手い台詞も見つからないままに、
     俺は自分自身すら分けの分からない言葉を再び呟き始めていた。
     なのに、宗蔵は俺以上に俺の言葉を汲んだみたいに、
     パレットを手にした左手を、ふと膝上に落とした。
     
     「殺してナンボだからな。」
     「・・。」
     「俺が吐き出したモノなんざ売る価値はないさ。」
     
     「買うよ!」
     
     俺は反射的に叫んでいた。
     何の考えも無しに叫んだ言葉ではあったが、それは間違いなく俺の本心だった。
     
     「俺が買う。」
     「阿呆。」
     
     俺の言葉を軽い冗談と切り捨てて、再びパレットを取り上げた宗蔵の肩に、
     俺は気付けば手を伸ばしていた。
     骨張ったその肩口を掴んで、俺は無理矢理宗蔵に視線を合わせた。
     俺が本気だと分かってもらう為に。
     
     「俺が買う。売ってくれ。」
     「・・。」
     「だから、ソイツをアンタの思うように仕上げてくれ。」
     「・・。」
     「いくらだ。いくら払えばいい?。」
     
     不快さを示してひそめられた形のいい眉を間近に見つめながら、
     本気だと分かってもらう為に俺は宗蔵を強く覗き込んだ。
     宗蔵はといえば斜視気味に俺を見据え、それから視線を流して自分の肩先を見やった。
     
     いつの間に宗蔵の両肩を強く押さえ付けていた自分の両腕に、
     俺は今更ながらに気付いた。
     強盗に銃を突き付けられた店員まがいに、俺は咄嗟に両手を上げて三歩下がった。
     
     「悪ィ!。」
     
     手、手を出しちまった。
     怒ってる?、よな。
     
     「自分の絵に値付けした事なんざ無いんでな。良く分からん。」
     「そ、そうなの?。」
     「ああ。画廊が勝手に値を付ける。俺は『それでいい』と言うだけだ。」
     
     手を出しちまったという俺の先走った行動は、
     意外にも受け流されたようだ。
     ・・助かった。
     
     「まあ、先に金額を言ってくる場合もあるな。アレなんかそうだ。」
     宗蔵は窓下の完成画を視線で指した。
     「『公園の綺麗な風景でも』と頼まれた。それでまあ、小綺麗に仕上げた。」
     「へえ。」
     「ああゆうのはウケがいい。」
     「どういうの?」
     「顔の分からん人間が遠くにぼんやり散らばってって、色も構図もぼんやりとしたヤツ。」
     「あ、あれは幾ら。」
     「30。」
     
     30。
     30円のわけはない。
     30千円などという金銭単位は無い。だとすればつまり。
     30万。
     
     絵の単価というのはそーゆーものなのか。
     そのジャンルに今までまるで縁のなかった俺には目安とすべき基準も無い。
     漠然と、その額で俺が働かずに何ヶ月暮らせるだろうなんて思ってみたりする。
     
     「それで買う。」
     「あん?。」
     「30万で描きかけのソイツを買う。イヤ、売ってくれ。頼む。」
     「・・まだ出来てもないだろーが。」
     「じゃ、アンタの思うように仕上げてくれ。」
     「・・。」
     「俺は今のその絵に惚れた。だから小綺麗でウケがいいやつに直すんじゃなくて、
     アンタの好きなように仕上げて欲しい。それには・・安いか?。」
     
     安いなら仕方無い。言い値分払う。
     正直俺には30の手持ちすら無い。だけど金ならなんとかする。
     実際どうするのか今のこの時点では思い付かないが、とにかく命懸けで何とかする気持ちの用意はある。
     
     「心底変わった男だな、貴様。」
     「そ、そうかな?。」
     「そういや貴様も絵を描くんだったか。」
     「・・へ。」
     
     俺の背中に一筋の汗が流れた。
     
     そういや前に、ついそんな事を言ったかもしれない。
     なんとなく流れで、後に引けなかっただけだ。
     
     「嘘デシタ。」
     
     宗蔵は直立不動の俺を覗き込むと、鼻先でふと笑いを漏らした。
     しかしその笑いは嘲笑っているようでもなく、
     いつもの冷徹な雰囲気とは違う、柔らかな風を孕んでいた。
     
     「いーぜ。」
     「え?。」
     「お前のオーダーで仕上げよう。」
     「マジ?!。」
     「ああ。おそらくろくでもない絵になるだろうが。」
     
     ああ神様。
     俺は今、最高に幸せかもしれない・・。
     
     そんな感謝の気持ちなんかを表す言葉を探して俺がぼんやりしてる隙に、
     宗蔵はと言えばキャンバスに向き直ってしまった。
     
     俺は愛おしいハニーの後ろ姿を見つめながら、
     最後に一つどうしても確認しておかなければならない重要事項を思い出していた。
     
     「あのさ。ローン、きくかな。」
     「・・。」
     「何回まで可?。」
     
     
     - 続 -
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