14


     
     地上12階建ての高層マンション、
     ホテルのロビーみたいな1階の大理石の間からエレベーターに乗って、
     俺達4人が降り立ったのはなんと最上階。
     
     「し、失礼しま〜す。」
     
     案内された、というより単にハニーの後ろを付いて歩いて俺達が到着したのは、
     世の奥様連中が憧れて、見るだけはタダだと見学して歩くモデルルームめいた白い居城だった。
     
     勝手が分からない俺と戒而にはお構いなしに、
     「上がれ」という短い指示の言葉を残し、
     ハニーは一人さっさと廊下の奥に姿を消した。
     野生動物の俊敏さで悟一がその後を追う。
     
     玄関から見渡す室内は、ほんのりクリーム色がかった白の壁紙で統一されている。
     柔らかく影を落とすダウンライトは、手で電源を入れたり消したりするんじゃなくて、
     人が通るのを勝手に感知して付いたり消えたりするらしい。
     地上12階建ての最上階だというのに、同様に最上階の俺のアパートよりも天井が高い。
     まあ俺ンちは地上2階建てのプレハブであり、ココに比べたら物置小屋だ。
     
     果たして庶民がこのよーな場所に上がり込んでいいものだろうか。
     その辺を問うべく俺が声をかけようとした戒而はと言えば、
     「へえ綺麗なところだなあ梧譲のアパートとは違いますね全然」などと、
     俺の立場をまるで考慮しない台詞をぬけぬけと呟きながらさっさと上がり込み、
     既に廊下の先に姿を消そうとしていた。
     
     なんとかここまでついてきて、白いモデルルームの玄関に取り残されている場合じゃない。
     俺は意を決して敵陣、もとい愛しの君の居城に乗り込んだ。
     
     前の通り主に感応したライトに導かれて
     辿り着いた廊下の奥は、15畳もあるかというダイニング兼リビング。
     中央に据え置かれた朝食用の木製テーブルを挟んで、左右両脇に背の高い椅子が2組づつ。
     向かって右側に戒而と悟一が並んで座り、戒而に向かい合って宗蔵。
     だとすれば、俺の場所は必然的にハニーの隣とゆーことになる。
     
     「し、失礼しま〜す。」
     
     俺は新入りのホステスかなどと心で自分に突っ込みながらも、
     俺は前と同じ台詞で宗蔵の隣にこっそり腰を降ろした。
     
     「じゃ、始めますけど。」
     
     戒而が始めるというのはつまり、家庭教師の授業とやらだろう。
     授業の按配を宗蔵が一回確認して、それで戒而を雇うか雇わないか決める、と、
     そういう段取りになっていたはずだ。
     
     毎回の授業時の手筈なんだろうか、悟一はノートや本や筆入れやらと、
     そういえば俺自身は最近見かけた事のない懐かしくすらあるあれこれを、
     テーブルの台に乗せ始めた。
     
     「観客がいた事なんてないんだけど。静かにしてて下さいね。」
     「ハイ。」
     
     答えたのは俺。
     ハニーはと言えば、沈黙のままにマルボロのケースに手を伸ばすと、一本くわえて火を付けた。
     ライターの「シュボ」っという発火音が答えの代わりと言えない事も無い。
     
     「何だかやりにくいなあ。」
     
     あろうことか、戒而が愚痴を漏らした。
     俺は斜め向かいから戒而を睨み付けながら「馬鹿野郎、穏便に事を運べ」と
     口には出さずに身振り手振りで必死に伝えた。
     そんな俺に気付かないわけでもないくせに、戒而は知らんぷりを決め込んだ。
     
     やっぱりコイツは機嫌が悪いような気がする。
     何故だろう。
     
     「じゃ、まあ、始めますけど。悟一、あなたの苦手な数学から。」
     「ひー」とガキらしい悲鳴を漏らしつつ、
     悟一が本の山から『数学T』と書かれたのを取り出した。
     
     「前回、三角比の相互関係について軽く説明したと思うんですけど、覚えてます?」
     「さいん、こかいん、ってヤツ?」
     「コサイン。」
     「えっと、どうだろ。」
     
     無理無理。
     さいん、こかいんとか言ってるヤツが三角関数なんて分かってるもんか。
     
     「sin2A+cos2Aは?」
     「1。」
     「正解。」
     
     おおう?!。
     マジかよ?!。
     
     「根拠を証明できますか?。」
     「オレが知ってんのでちゃんと数字になるのはソレだけだ。」
     「・・。」
     「あとはちゃんとした数じゃない。」
     
     ルートの事か?。
     それとももしかして、コイツの頭では
     分数も「ちゃんとした数じゃない」のに分類されてんのか?!。
     
     「結構です。」
     
     結構なのか???!。
     
     思わず「うそお」と声を漏らした途端、俺は俺を射殺す迫力の戒而の視線に貫かれた。
     俺は自分の口を片手で押さえ、もう片方の手の振りで授業の続きを促した。
     
     「模試が近いんですよね。いつですか?。」
     「明日。」
     「そうですか・・。仕方ないから今日だけ即効性のある内容に切り替えましょう。」
     「ん。」
     
     即効性のある授業なんてそんなのがあんのか?!。
     だったらいつもソレにすりゃいいんじゃないの?、特に相手がサルの場合は。
     俺が突っ込みたいのをこらえて見つめる先で、戒而が鞄からプリントの束を取り出していた。
     教師職めいたそんな動作が異様に似合うヤツだと、俺は授業にまるで関係のないことを思ってみたりする。
     
     「問題集の裏から回答用紙コピーしてきました。これどうぞ。」
     「ん。」
     「ハイ、試験が始まったとします。一番最初にどうします?。」
     「名前書く。」
     「正解。」
     
     ブッ、と無意識に吹き出してから、俺は俺の口を手で思いっきり押さえた。
     非常識なレベルの低さは衝撃的に面白い。
     
     「今回の模試は三角関数と確率が含まれますよね。」
     「うん。」
     「設問を全部読んで、分かるものが一つも無かったとします。」
     「ん。」
     
     再び、ブッ、と吹き出してから、俺は再度俺の口を全力で押さえた。
     猛烈な仮定だとしか言いようがない。そしてその極端な仮定に異論も上がらない。
     大丈夫なのか。
     否、大丈夫じゃない故の家庭教師だろうがそれにしても。
     
     「確率の問題は有利です。回答の範囲が限られてますからね。整数なら予想できる範囲は?。」
     「0から100。」
     「正解です。覚えてますか?、分からない場合の鉄則その1。」
     「てきとうにマークを塗る。」
     「やってみましょう。」
     
     サルは園児の落書きめいた字で回答用紙に名前を書くと、細長い丸を黒く塗り始めた。
     全てに於いて面白過ぎる。
     俺は笑い声を漏らさないよう必死で口を押さえたが、上半身が不自然に揺れるのを止めることができずに
     一人で悶え苦しんでいた。やたらと汗が流れ出て、酸欠で死ぬんじゃないかと思う。
     
     「できた!。」
     「う〜ん、この塗りは『悪い例』の『3』に近いですよ?、はみ出て隣にくっついちゃってます。」
     「あちゃ。」
     「もう一度やってみましよう。」
     
     だめだ死ぬ。面白過ぎる。
     丸すら塗れないのか。
     てゆーかこんな家庭教師の授業があるだろうか果たして。相手は高校生だぞ。
     
     忍び笑いというより発作的痙攣のレベルにある俺の我慢は限界に近い。
     なんとか俺自身を冷ますべくふと脇に目をやると、宗蔵の肩も細かく震えていた。
     (なんだハニーもウケてんじゃんやっぱり。)
     なんて思ったその直後だった。
     
     「馬鹿野郎!!!」
     突然の怒号と共に立ち上がった宗蔵が、目の前のテーブルを蹴り上げた。
     「!!。」
     ひっくり返って宙を舞った背の高いテーブルは、
     悟一と戒而を頭上から直撃する・・ハズだった。
     
     バシ、と、鈍い衝撃音がして、テーブルは悟一と戒而を俺達の側から覆い隠し、
     それから横向きに俺達の中央に落ちた。
     俺と宗蔵に裏側を見せて横に倒れたテーブルの向こう、
     悟一を庇うように腕を突き出したままの戒而が、殺人的な視線で宗蔵を見据えていた。
     
     宗蔵が蹴り上げたテーブルはつまり、戒而の腕に止められて落ちたと、そういうことだ。
     
     「馬鹿か貴様ら!!。そんな高校生の授業があるか!!!。」
     「悪ィ、宗蔵、オレが馬鹿だから・・」
     「それは分かってる!!。」
     
     気迫のこもった怒鳴り合いも、内容自体はかなり面白い。
     しかし笑っていられる状況でもないみたい。
     
     「『馬鹿』ですって?、『分かってる』ですって?!。」
     「オ、オイ、戒而・・」
     「『馬鹿』は貴方でしょう?、何も分かってませんよ貴方は。」
     「・・もう一度言ってみろ。」
     
     ヤバイ。
     この展開はものすごくヤバイ。
     
     「模試は明日なんですよ?、
     0点よりは1点でも取らなきゃなんないんです。それを理解してるんですか貴方は?。」
     「オ、オイ、戒而、モノには言い方が・・」
     「貴方は黙って!。」
     「コラ人が優しく言ってんのに・・」
     「・・そういや貴様は何故ココに居る。」
     ヤベ。そうきたか。
     
     「ええと。」
     「貴様がココに居る理由が何かあんのか。」
     「ええっと・・」
     
     「そんな人に構ってる場合じゃないでしょう!。」
     
     そんな人。
     
     戒而の言葉は中傷なのかそれとも助け船なのか。
     結果からすれば、俺はとりあえず非難の矛先を免れた。
     
     「とにかく邪魔なんですよ貴方達。出ていってもらえませんか。」
     「バ、バカ!。」
     出てけってココはハニーんちだ。
     しかしそれを言うなら俺が一番先に出てくべきであり、
     その辺を言いあぐねて俺が口をパクパクさせてる間に宗蔵が動いた。
     
     「!。」
     うわもう乱闘?。
     
     そんな予感に肝を冷やした俺の想いは幸運にも軽く裏切られた。
     ハニーは無言で身をひるがえし、俺達に背を向けてダイニングを後にした。
     
     「オイ、戒而、どうする・・」
     「貴方も邪魔!!!。」
     「ひっ!。」
     
     俺は完全に気迫負けしていた。
     気付くと俺は負け犬の俊敏さで廊下へと飛びだしていた。

     ダイニングの入り口で何となく気になって振り返ると、
     戒而は悟一を手伝わせて横転したテーブルを元に戻しているところだった。
     これから続きの授業が始まるらしい。
     確かに、俺がいても邪魔だろう。
     
     玄関へと続く直線の廊下の先を、宗蔵が俺に背を向けて歩いていた。
     外に出るのだろーかと思えたちょっとしょぼくれた後ろ姿は、
     玄関手前の一室の前で立ち止まり、ドアノブを引くと、そのまま室内に消えた。
     
     (どーしようかな〜。)
     
     俺は長髪を掻き上げて呟いてみたりする。
     な〜んて、本当は俺の行き先はもう決まっていたりするんだけど。
     
     愛しの君の背を追って、俺は玄関前の一室までの短い距離を駆けた。
           
     
     - 続 -
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