13


     
     「そうだ!。いいこと思い付いた!。」
     
     案の定調子に乗ってきた李厘は、自分の爆乳の前でぱちんと両手を合わせると
     すっとんきょうな大声を上げた。
     
     「ね、ピアノ弾いて。」
     「え?。」
     「こっちこっち!。」
     
     突然戒而の片手をひっつかむと、李厘はローラー付きのバッシュで
     冬山を登るようにガスガスとフロア奥へ進んだ。
     李厘に手を引かれ、戒而は戸惑いがちにヨロヨロと歩を進めた。
     李厘に引きずられたまま、戒而は俺に振り向いて困ったように笑う。
     (どうしましょう?。)
     戒而の視線は俺にそう尋ねたが、どうするも何も。一体何だか俺が分かんない。
     
     ただの飾り物と認識していたフロア中央の白いグランドピアノ、
     そこ備え付けの長めの椅子に李厘は戒而を無理矢理座らせた。
     戒而はと言えば俺の助け船を待ってだろうか、無駄に頭の後ろを掻いたりしながらただ困り果てている。
     
     脇から戒而の手元を覗き込む李厘だけが上機嫌だ。
     いくら閑な店だからといって、店員自ら遊んでるよーではお話しにならない。
     俺は戒而を挟んで李厘の向かいに立ち、多少の牽制に睨み付けたが、李厘はもう俺なんか見ちゃいない。
     
     「ハイ。始まり始まり〜。」
     「ええっと、ココ、お店ですからね・・。」
     「いいじゃん。お客さんに聞かせようよ。」
     「しかも思ったより格調高い喫茶室ですし。」
     
     梧譲がこんなとこで働いてるとは思わなかったなあ、とかなんとかいう
     ある意味失礼な戒而の発言を耳の端に留めながらも、
     俺には素敵な妙案が浮かびつつあった。
     
     「弾け、戒而。弾いてくれ。」
     「え?。」
     「しかも長いヤツ。」
     「長いヤツ?。」
     「おう。店が閉まるまで続くようなヤツ。」
     「貴方・・」
     
     ピアノの前の長椅子の上で、戒而は上目遣いに俺を見上げた。
     それから少々眉根を寄せて、思わせぶりに俺に肩をすくめて見せた。
     
     「今日、僕について来る気ですね?」
     「おう。」
     「つまり僕について来て、『あのひと』の部屋に行きたいわけですね?」
     「お、おう。」
     
     普通に考えるなら、野郎が良く知らない野郎の部屋に行きたいわけなんかない。
     その辺の俺の想いなんかを直接戒而に話した事は、そういえばまだ無かった。
     
     戒而と二人きりで部屋にいる時に段取りなんかを頼んでおけば良かったわけだけど、
     俺のハニーが野郎であるという事実が、どうにも俺の口を鈍らせていた。
     
     言うべき事は色々とあったが一応今は仕事中だし、
     それより何より愛しのハニーはここから俺達の目が届く範囲に居る。
     詳細なんて話せない。
     俺は有り余る気迫をを込めて、ひたすらに戒而を見つめた。
     察しのいいコイツなら、分からない事もないだろう。
     
     ついてくるななんて言うなよ、言わないでくれお願い、と、俺は必死の懇願を目線に込めた。
     沈黙のうちに見つめ合う俺達の間には、妙に緊迫した空気が流れた。
     
     「閉店って、1時間もあとでしょう?」
     「お、おう。」
     「あるわけないじゃないですか。そんな長い曲。」
     「・・。」
     「一人で交響曲弾くわけにもいかないし。」
     
     いつになくぶっきらぼうに言い放った戒而は、俺から視線を振り切った。
     俺の捨て身のお願いは拒絶されたんだと思った。
     しかし、意外にも戒而はピアノに向き直り、鍵盤に覆い被さるように軽く頭を沈めた。
     
     それからあとは、粒の大きな真珠のネックレスがはじけて飛んだみたいに、
     飾り物だったピアノがポロポロと音をこぼした。
     
     戒而の右手が、とある旋律を探すかのように、白と黒の鍵盤の上を一見無規則に動いていた。
     フレーズがあるような無いような、スケールのようなそうでもないような不安定な旋律。
     それにふと、左手が叩き出す和音が重なった。
     短くビートを刻む左手のコードは確固たる意志を持ち、右手の危うげな旋律にたたみかける。
     強目の打鍵も充分に制御された力だから、むしろ優しい印象に響く。
     
     繊細に、しかしあくまで理知的に。
     
     リズム取りが難しい程のアップテンポも、完璧に正確な打鍵が曲の速さを意識させない。
     ジャズスタイルのピアノを生で聴くのは初めてだった。
     
     俺はバカみたいに戒而の脇に立ち尽くしていた。
     だから戒而が曲の途中に俺を見上げて目線で何かを問いかけても、俺は咄嗟に反応できなかった。
     そんな俺に首を傾げると、戒而は再び鍵盤に向き直り、エンディングらしきフレーズを弾き出した。
     左手が終止形のコードを響かせて、右手は余韻の残るフレーズを高音域で叩き出す。
     
     どうやら1曲目が収束したらしい。
     
     きゃっ、と歓声を上げて李厘が手を叩いた。
     それにつられたかのように、数少ない客の間にも拍手が湧いた。
     まばらな客の拍手は次第に消えるどころか徐々に強さを増し、
     戒而は戸惑い乍らもその場に立ち上がると、客に向けて軽く頭を下げた。
     
     「・・とまあこんな感じなら長く弾けない事もないですけど。」
     「な、なんて曲?」
     
     動揺を隠し切れない俺は、全くどうでもいい質問をした。
     曲名なんか聞いたところでどうせ俺の知らない曲だ。
     ジャズピアノを生で聴くのも初めてだが、
     ジャンルを別にしてもこんな上手いのを目の前で見たのは初めてだった。
     俺にとってそういうのはレコードとかCDの中にしか存在しない事になっていた。
     
     「適当。」
     「え。」
     「『適当』って題の曲じゃないですよ。」
     「はあ。」
     「1時間もかかる長い曲あったとしても覚えられないし。」
     「ア、アドリブ?!。」
     「前に聴いた事あるようなフレーズ想い出してやってるから完全にフリーでもないけど。」
     
     ほぼフリージャズだって言うのか?!。
     そんなとんでもないことをお前は事も無げに言うのか?!。
     
     「こういうのだったら休みながら1時間くらいもたせられるかもしれない。」
     「そそれでぜひ。」
     「分かりました。」
     「よろしくお願いします。」
     「・・はい。」
     
     短い返答で、戒而は再び鍵盤に向き直った。
     なんとなーくヤツの機嫌が悪いように思えるのは俺の気のせいだろーか。
     
     本当のところがどうなのか俺には分かるハズも無く、
     俺は頭の後ろなんか掻きながら、俺の定位置つまり入り口近くのレジ脇へと戻った。
     
     李厘の思いつきの「生演奏サービス」は意外とウケているらしく、席を立つ客はいない。
     とすれば会計担当の俺としては特に仕事も無い。
     レジ台とつながったカウンターに頬杖なんかついて、あとはぼんやりフロアを眺めてみる。
     
     戒而の2曲目が始まりつつあった。
     やっぱり前みたいに、まず高音域の片手が旋律を探す。
     前のとちょっと違うのは、今回は右手が和音を多用して奏でたこと。
     先走る音の粒を拾って、もう一方の手が低音の旋律で追いかける。
     今度はちょっとスローテンポだ。
     
     フロア中央の白いグランドピアノに向かう戒而は、俺の右手正面に当たる。
     ピアノを弾く戒而は窓側に横顔を向け、入り口側、つまりレジ前の俺に向かう方向に腰を降ろしている。
     戒而の斜め後ろの窓際には、俺の愛しのハニー。
     
     ハニーと戒而は特にお互いを気に留める様子も無い。
     
     だけど、どうしたわけだろう、俺の視界に収まった2人の野郎は、何つーのかその、
     予想外に似合ってるようにも見えた。
     
     それぞれが違う意味で俗人離れしたヤツら同士が、もしも振り向いて見つめ合ったなら、
     そこには俺のよーな庶民が入り込めないハイソなワールドがもやもやっと立ち現れるんじゃないだろーか。
     そしてもしも万が一そんな事があったりしたらば、その時俺サマの立場は一体どうなるのだろーかなどと、
     仮定が前提の無駄くさい俺の妄想はしかし、降って湧いたガキんちょの大声で掻き消された。
     
     「悪ィ、遅れた!!。」
     
     重厚でお上品なエントランスのドアを軽くブチ開けて駆け込むのは、
     いつも通りの薄汚れたジャージ少年。
     ヤツだ。
     俺のハニーと一緒に暮らしているなどとゆう許すまじなガキんちょ。
     
     演奏中の戒而に気付いたジャージ少年は、多少の驚きを見せふと歩を止めたが、
     すぐに気を取り直し、その後は当然のように窓側最奥のテーブルでハニーの向かいに腰を降ろした。
     ハニーの正面という特等席が、何故よりによって山猿なのか。
     世界は謎に満ちている。
     
     
     華麗で理知的なジャズピアノの即興演奏をBGMに、
     俺は遠景で、不思議な3ショットの光景を眺めていた。
     客と李厘はもはや俺の視界には無い。居るのは知ってるが見えてこない。
     
     待てよ?。
     俺サマは庶民ではあるが、どう少なく見積もっても山猿よりはかなりマシだ。
     それだけは間違いが無い。
     だとすれば。
     
     やっぱり俺にも必ずやチャンスはある。
     
     そうでしょう?、神様。
     
     
     - 続 -
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