続きです。
悟浄の語りで。






〜あなたが噛んだ小指が痛い
 昨日の夜の小指が痛い

鼻につく声音の年増女の悪趣味な歌が、
今朝から俺の頭を離れない。

それはおそらく俺に痛む部分があるからで、
具体的には悪党にヤられたここかしこや
アイツに切り裂かれた頬の傷以外のソレだ。

まあこうやって座っている分にはさほど問題はない。
が、動くと痛い。
そうはいっても我慢できないって程でもない。

実際のところ、痛いのは身体なのか傷ついたプライドなのか
自分でも分からない。
今となってはそもそも俺にプライドなんてもんがあったのかも怪しい。

俺たちは一体、何をしてるんだろう。


俺は台所の椅子に腰掛けたまま、天井を仰ぎ見た。
くわえた煙草を吸い込んで、口の端から紫煙を吐いてみる。
白っぽい昼前の陽差しが煙の白を風景に溶かすから、
煙が吐けてんのかどうかも分からない。

テーブルの上でガツンと物が当たる音がした。
ふと視線を流すと、ヤツが洗い立ての灰皿を
これ見よがしにテーブルに置き付けたところだった。
『床に落ちる前に吸い殻は灰皿に』と、つまりはそういう事らしい。
「・・・。」

一過性の台風みたいに悟空が通り過ぎた後の室内は
ひときわ静まりかえった気がする。

おそらくは朝の日課なんだろうか、
ヤツは台所やら洗面所やらを往復しては、
拭いたり洗ったり畳んだり掃いたりを繰り返していた。

普段は寝ている時間に起きてしまった俺としては何も為すべき事がない。
いつもの俺なら、昔の女の失敗談なんかを面白おかしく話して聞かせるところだけど、
今朝に限ってはそんな気分にもなれない。

そういやアイツは、野菜が高いとか安いとか言ってたっけ。
なんでそんな話できるんだろうな。
首筋に紫の痣を残すアイツの顔をまともに見れない俺と違って、
アイツは今朝も至極普通。
嘘みたいにいつも以上に普通。


「暇、ですよね。あからさまに。」
「おう。」
「手伝いませんか。」

俺は呼ばれて、流しにヤツと並んで立った。
洗いますから拭いて、という短い指示に基づいて布巾を手にする。
食器なんかほっとけば乾くだろうと思うが、
どうせ暇なんだし言われた通りにする事にした。
それに並んで立つ分には、顔を付きあわせなくて済む。

ヤツが洗ってすすいだ食器を俺に手渡す。
受け取って俺が適当に布で撫で回す。
単純な流れ作業を黙々とこなす俺たちの目前の小窓の外では、
雀らしき鳥がやたらとさえずっていた。

「はいはい。ちょっと待って。」

俺は愕然として皿を拭く手を止めた。
ヤツは今確かに、俺ではなく外のさえずりに対して返答した。

「話せんのか?!。」
「なんとなく。」

なんとなく?!。

硬直した俺を気にかける様子も無く、
ヤツは取り出した小皿にパン屑を握りつぶして乗せた。
流し前の窓に手を伸ばしては開き、
ヤツが出窓の出っ張りに小皿を置くのと同時に、
数羽の雀が群がった。

「今日はちょっと遅れちゃいましたね。
ああ、あなた達はもう少し後。」

ヤツが『あなた達』と呼びかけた先、窓外右上40度を見上げると、
カラ松の枝上に何やら黒い固まりが見えた。
よく目をこらすと、それはカラスの一群らしかった。
ヤツの言葉に応えるように、その中の一羽がカァと鳴いた。
「・・・。」

目の前の小皿には、いつの間に数十羽に増えた雀がたかっていた。
中には雀じゃないのも混じっている。

もしかして鳥は、日に日に増えたりしてるんじゃないだろうか。
だとすればいずれはヒッチコックの『鳥』みたいな事になるんじゃないだろうか。
大丈夫なのか俺んち。

俺はふと、ガキの時分を思い出した。
ガキの頃住んでた街の外れに、偏屈な爺さんが独りで暮らしていた。
爺さんの家の周りには、飼っているというより
単に居付いた犬やら猫やら鳥やら小動物が何十匹もたむろしていて、
街の人間は不潔だと爺さんを非難していた。

爺さんは気難しくて人間嫌いだから動物が好きなんだろうと、
街ではそういう話だった。

俺はガキの頃、よく家出した。
きっかけは何だったか思い出せないが、俺はその爺さんに良くメシを貰った。
つまりは、俺も爺さんのところに居付いた動物のひとつだったのかもしれない。
勿論俺には人間の食うものをくれたけれど。

何があったとかいつ帰るとか、爺さんは面倒な事を聞かなかった。
爺さんは縁側でひとり煙草をふかしている事が多かった。
特に話もせずに、俺は爺さんの隣に座ってぼんやり時を過ごした。

街で言われてるように爺さんは不潔でもなかったし、
きっと人間嫌いでもないんじゃないかと、俺はガキなりに思っていた。

爺さんは、日がな空を見上げていた。
歳だからボケてたのかもしれないが、
爺さんの皺が刻まれた横顔は何かを思い起こしているようにも見えた。

爺さんは、ずっと誰かを待っていたんじゃないだろうか。
人が嫌いなんじゃなくて、
会いたい誰かをずっと待っていたんじゃないだろうか。
ガキの俺は、そんな事を思っていた。

本当のところは、
勿論分かるはずもない。


「悟浄?。」
「わ。」

突然呼ばれて俺は急に追憶から引き戻された。
振り向いた先では、ヤツは残飯を乗せた皿を両手に持っていた。
そしてヤツの背後には山盛り状態の洗濯カゴが3つ。

「陽が高いうちに干しますから。
持てるだけ持って。」

家中の布を洗ったのかという量の洗濯物はとても一度に運べそうもなく、
俺は取り敢えず両手に一つづつカゴを手にしてヤツの後に従った。

(やっぱり・・。)

ヤツが残飯の皿を手にしているのを目にした時にそれは既に想像がついていた。
しかし想像以上だったと告白せざるを得ない。

俺たちが踏み出した玄関先では、犬と猫が合わせて20匹程度、
喧嘩もせずにメシを待ち侘びていた。

「ハイ、子供。ハイ、大人。」

妙な暗黙のルールが徹底しているらしく、
犬猫は種別ではなく育ち具合でそれぞれの皿へと突進した。
一体どうやってしつけたのか。

動物達ががっついて食うガツガツともワシワシともつかない効果音の前、
洗濯カゴ両手に俺は立ちつくした。

「『八戒と愉快な森の仲間たち』・・てか。」
「じゃあなたも『愉快な仲間たち』のひとりですね。」
「何で。」
「あなたも僕に食事出してもらってるでしょう。」
「・・。」

爺さんは、誰かを待っていたのだろうか。
コイツも、まだ誰かを待っていたりするのだろうか。
会えないと知っている誰かを。

ふと、威嚇するような低い唸り声が俺の耳に届いた。
何気なく藪に目を移した俺は、自分の目を疑った。
絶滅した日本オオカミじゃないのかとも思える、
がたいのデカい飢えた野犬の集団が、俺んちを半円に囲んでいた。
「!!。」

「大きいひとはあと!。」

ヤツが宣言して睨みをきかすと、
オオカミのような犬どもはキュゥンと鼻先で声を漏らし足を折った。
今食ってる小さいのと普通サイズのが食い終わるのを待つらしい。
マジでどうやってしつけたんだろう。

「・・オイ、大概にしとけよ。」
「いけません?。」
「そのうち森じゅうの動物集まってくんぞ。」
「家計が逼迫するでしょうか。」
「イヤそうじゃなくて。」

「退屈なんですよね。」
「へ?。」
「あなた昼過ぎまで起きないでしょう。」
「俺?。」
「も少し早く帰ってくればも少し早く寝れて、
朝にも起きれると思うんですけど。」

俺は洗濯カゴを抱えたまま
飯を食い漁る『愉快な仲間たち』をぼんやり見下ろした。

爺さんが何かを待っていたのかどうかなんてもはや知りようもない。
だけどヤツは俺を待っていた。
夜遊びみたいな仕事帰りの夜、惰眠を貪る朝、ヤツは俺を待っていた。

失った誰かじゃなくて、俺を。


- 続 -

 


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