続きです。





誰にも聞こえないバカバカしくも荘厳で敬虔な賛美歌の大合唱から
僕を引き戻したのは、戸口に響いた確かなノック音だった。

「客?。」
「誰でしょう。」

手にしたままのコーヒーを無造作に彼に渡して、
僕は玄関へと向かった。
薄くドアを開けた先に立つのは意外な客人。
幼い天使は無邪気に僕に笑いかけた。

「八戒おはよう。」
「悟空?。」

大きくドアを開いて外を見渡しても、
三蔵の姿は見あたらなかった。

「ひとりですか?。」
「うん。三蔵が行ってこいって。悟浄いる?。」
「ええ。・・まあ入って。」
「あれ、怪我したの?。」
悟空は僕の首筋に目を止めて、ふと首を傾げた。
「ええ。ちょっと転びました。」
「痛い?。」
「全然。」

僕は悟空を食事中の台所のテーブルに案内した。
悟浄の斜め隣、少し背の高い椅子に、
悟空はよじ登るようにして座った。

「よ、サル。よくひとりで来れたな。」
「アレ、悟浄も怪我?。」
「おうよ。寺の奴等にコキ使われて身体中傷だらけだぞ。見るか。」
「別にいい。」
「悟空、朝ご飯食べていきます?。」
「うんっ!。」
「コラ。お前がメシ食わないで出て来たはずないだろ。」
「朝メシ2回食ってもいいだろ!。」
「・・悪くないけどさ。そりゃ。」

悟空と悟浄のとりとめのない会話を背中で聞きながら、
僕は流しの前で追加分の食事を用意した。
悟空の無垢な輝きが、今朝の僕たちの取り繕われた日常を自然のものにする。

手早くまとめた一皿に加えてのトーストとミルク。
ありきたりの朝食を悟空はあっという間に平らげた。

「で、何。」
「何って。」
「用があるから来たんだろ。」
「あ、そうだ。」
「・・忘れてるよ。」
「今思い出しただろ!。」
「じゃ、また忘れる前に言っとけ。」

悟空はポケットに手を突っ込むと
小さな袋を取り出しては、悟浄の前に投げ出した。
机に置かれた際、それは硬貨が重なる小さな金属音を立てた。

「寺のエラい人がくれた、って三蔵が言ってた。」
「俺に?。」
「仕事料だって。」
「金くれるなんて聞いてねーぞ。」
「エラい人は悟浄死ぬと思ってたんだって。」
「・・。」
「意外とうまくいったもんだからまた頼みたいんだろ、って三蔵言ってた。」
「またなんかねーぞバカ!。」
「知らないよオレ!。」

僕は机に投げ出された袋を手に取り、中を確認した。
まずまずの、いい金額だった。

「ワンダフル。」
「何言ってんだ八戒。」
「これでコタツを買いましょう。」
「あん?。」
「悟空、次もお引き受けしますと言っといて下さい。」
「分かった。」
「コラ!。」
「洗面所の蛇口の下に真っ直ぐカビが走ってるでしょう?。」
「は?。」
「磨いてもなくならないということはおそらく水道管に小さい亀裂が入ってるんです。
工事頼まなくちゃならないし。」

「・・じゃその前に俺の小遣いにしようよ。」
「はい?。」
「俺財布落としたみたいで。」
「落ちてましたよ、洗面所に。」
「え。そうなん?。」
「気を付けてくださいね全く。」


ボリボリと頭を掻き始めた彼を取り敢えず無視して、
僕はテーブルの食器をまとめた。
その時僕の背後で、食後のお茶用にと準備していたヤカンが
沸騰しては暴れ出した。

食器で僕の手が塞がっていた事もあり、
悟浄が立ち上がってはコンロへと向かった。。
僕の視界の端で、その時彼は足を引きずるように動いた。
そして、その動作の不自然さに気付いたのは僕だけではなかった。

「あれ?、悟浄何かヘン?。」
「ば、馬鹿野郎!。」
「何だよ!!。」
「いいかサル、口が裂けても三蔵には言うなよ!。」
「なんて?。」
「俺がケツが痛いみたいに歩いてたなんて言ってみろ、二度と・・」
「悟浄!!。」

僕は思わず手にした食器を置いて額を押さえた。
誰も今ケツがどうこうなどと言ってはいない。
何故敢えて自ら暴露する必要があるのか。

「あ。」
遅ればせながら気付いた彼が自ら絶句した。

悟空の存在で束の間忘れられていた僕たちの作られた均衡は
今や取り繕う間もなく、露呈した不穏な雰囲気は室内の気温を僅かに下げた。
しかし悟空がそれを感じ取ったかは不明だ。

「お湯、沸いてるよ・・。」
「うわ。そうだった。」

沸騰し続けて3分の2程に減った湯で、僕はそそくさと茶を淹れた。
彼はふてくされたように元の椅子に戻っては煙草をふかし始めた。
悟空はと言えば、至って普通にお茶が出るのを待った。


沈黙のままに、僕が淹れたての湯飲みを悟空の前に差し出した時、
悟空はふと何かに思い当たったように、
大きなその瞳を上げた。
「帰んなきゃ!。」
「え。用事ですか?。」
「うん。忘れてた。昼から三蔵どっか出かけるって。」
「どっかってどこ。」
「知らない。」
「知らなきゃ意味ねーだろ。」
「一緒に行く約束なんですか?。」
「うん!。」

どこに行くのかは問題ではなく、三蔵と一緒に出かけるということが
悟空にとって重要なのだろう。
悟空の笑顔は僕にそう伝えていた。

「じゃ!。またな!。」

最高に短い別れの挨拶で、悟空はあっという間に駆けだしていた。

「アイツ、三蔵好きだなあ。」

無垢な天使の後ろ姿を見送る気分で
僕が悟空の背を追って玄関へ向かうと、
今走り出た筈の騒がしい天使は何故か駆け戻っていて、
僕たちは戸口で正面衝突した。

「うわ!。」
「わ。」
「ど、どうしました。」
「ワリ、八戒、忘れてた。三蔵が八戒にそのうちひとりで寺に来い、って。」
「僕、ですか。」
「うん、その・・気をつけてな。」
「はい?。」
「三蔵、怒ってるみたい。きっと俺間違って言ったから。八戒言ったこと。」
「何か言いましたっけ、僕。」
「『ライバル』とか『てくにっくにいぞん』とか、オレ分かんないまま言ったから、
なんか違うく言ったかもしんない。」
「・・・。」
「ちゃんと言ってたら、八戒言うことで三蔵怒るはずないし。」

いやむしろ悟空は正確に話したのだろう。
この場合、多少間違ってくれた方が事にはならなかったハズだ。

「悟空は何も間違ってませんから。大丈夫です。」
「マジで?。」
「ええ。」
悟空は僕を見上げて、安堵の笑みをこぼした。
「そっか!。」

じゃあな、と僕に片手を挙げて、
悟空は今度こそ戸口を走り出た。
ドアを押し開けて見送った先、
悟空の小さな後ろ姿はあっという間に遠くなった。


(寺に来い・・か。)
またしても僕は新たなるトラブルを引き起こしたのだろうか。
まあ、現在の僕の心境からすると、
寺で三蔵に怒鳴られるくらいは別に問題でもないような気がする。
受け答え次第で撃ち殺される恐れも無いとは言えないが、
それならそれで構わない。
もはやなるようになれ、だ。

台所に戻ると、彼は冴えない表情で紫煙を吐いていた。
僕は彼の斜め隣に腰を降ろして、冷たくなった湯飲みを手に取った。
冷めた湯飲みに口を付けた僕に、彼が独り言のようにつぶやいた。

「『てくにっくにいぞん』するの?。」

僕の手の中で湯飲みが大きく揺れて、
表面張力を振り切ったお茶の数滴がテーブルの上に散った。

さっき悟空は玄関先で叫ぶように話していた。
当然ここには筒抜けだろう。
もはや為すがまま有るがままであれ。
言い換えれるなら「ヤケクソ」か。

「ええ。テクニックに依存するはずだったんですけど。」

神よ愚かなる僕を笑い給え。

「最終的には激情で押し切ってしまいました。
結果はあなたが体験した通りです。」

僕の斜め脇で、彼はがっくりと肩を落とした。


〜風よ主を歌え 雲よ主を誉めよ
 ハレルヤ

僕は冷たくなったお茶を、
ズズっと音をたててすすった。


- 続 -

 


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