続きです




翌朝早々。

挨拶も無しに三蔵は酒場のドアを叩き開けた。
傍若無人な最高僧の背に悟浄はただ従った。
三蔵の肩越しから手狭な店内を見渡せば、
中には前日に言葉を交わした黒髪のバーテンがひとり。
慈燕の姿は見当たらない。
こっそり溜息を漏らすほど安堵した自分自身に、悟浄は我ながら驚いてみたりする。

「いらっしゃいませ。
アルコールは夜からで午前中は軽食だけですけど構いませんか?」
「慈燕はいるか。」
「買出しに出てますけど?。」
「・・逃げたのか?」

三蔵の問いかけの意味を測りかねたらしいバーテンは軽く眉をひそめた。
それから白い法衣の背後に控える悟浄に気付くと、彼は気さくな挨拶を投げた。

「ああ、昨日のお客さん。本当に寺の方と一緒なんですね。」
「『本当に』って何。」
「やっぱり余計な事言いやがったな貴様!。」
「お、俺は別に」
「まあいい。貴様の処遇は後だ。」

慈燕より先に自分が殺されそう予感に、悟浄は無意識に足を引いた。
しかし三蔵はと言えば、そんな悟浄から視線を振り切っては店内にガツガツと踏み入った。

「貴様もグルか?」
「何言ってるんですか貴方。」
「共謀者も同罪だ。知ってたか。」

三蔵はおもむろに手を伸ばし、カウンター越しにバーテンの襟首を掴んだ。

「凶悪殺人犯をどこに逃がした。」
「慈燕さんが凶悪殺人犯ですって?、寝ぼけてるんですか貴方。」
「とぼけたつもりか?、クソが。」

きつく掴んだ襟首を、三蔵は怒りに任せて吊り上げた。
三蔵の手に気道を塞がれたバーテンの言葉は、もはや喉元の呻きにしかならない。
きっとバーテンは何も知らされていないのだろう。
だとすれば、明らかにやり過ぎだった。

「止めろよ。」

悟浄が口に出すはずのその言葉は、悟浄に良く似た声音で悟浄の背後から響いた。

ある種の予感をもって悟浄が振り向けば、
開け放たれたドアの向こうに、予想通りの『彼』が居た。

180を越す長身は悟浄を更に上回るかもしれない。
既に青年の域は超えたにしろ、鍛えたれた肉体は若き日の名残を残している。
悟浄とは似ても似つかない漆黒の髪に闇色の瞳。

(兄貴。)

大きな紙袋をひとりで3つも抱えた彼の足元には、
彼の腰にも届かない子供が4、5人まとわりついている。

「家に戻ってな。」

慈燕は静かに足元の子供達に告げた。
三蔵は八戒を吊り上げたままで、象でも射殺しそうな視線で振り向いた。
しかし慈燕を見上げる子供達がその殺気に気付く事はない。

「お話の続きは?。」
「後でな。」
「絶対?。」
「ああ。」
「絶対だよ。」
「分かった。先に帰ってろ。早く行け。」

子供達が駆け去るまで待って、慈燕が再度口を開いた。

「八戒を離せ。ソイツは何も知らない。」

慈燕を見据えたままで、三蔵はバーテンを吊り上げた腕を振り下ろした。
勢いで八戒はカウンターの向こうに転がり、
床に膝を折っては苦しげに咳を繰り返した。

「正直、年貢の納め時だと思わねえでもないんだけどな。」

場の緊張感にそぐわない抜けた口調で慈燕はボリボリと頭を掻き、
それから無造作に三蔵に歩み寄った。
しかし、フェイントだった。

大きな体躯のリーチ内に三蔵を捉えた瞬間、慈燕は巨躯の片足を振り上げていた。
充分な重量感の靴先は、空中に描いた弧の先に三蔵の顔面を捉えていた。
三蔵は反射的に一歩引き、慈燕の足蹴りを鼻先に逃した。

しかし、蹴りの勢いで回転を終えた慈燕の足は一歩踏み出して地に落ちていた。
無駄のない動作で、三蔵が引いた分より大きく踏み出した事になる。
筋骨も逞しい慈燕の腕が三蔵の法衣の襟を掴んだ。
逃げ様も無い三蔵に向けて、慈燕のもう一方の腕が振り下ろされた。
しかしその腕は、三蔵を叩く以前に、もう一つの逞しい腕に止められた。

三蔵の背後から慈燕の腕を取ったのは、悟浄だった。

白い法衣の麗人を挟んで、遠い日の兄弟が睨み合っていた。

「・・久しぶりだな、クソ兄貴。」
「身体だけはデカくなったな。ハナったれ。」

今やただの観客となり下がっていた八戒が「うそお」と声を上げた。

「全然似てないんですけど。」
「腹違いだからな。」
「解説してる場合かよ。」

「兄弟だろうが腹違いだろうが罪は罪だ。」

空中で悟浄に止められたままの慈燕の腕に、三蔵が手を伸ばした。
罪人は腕に縄をかけ寺に連行されるのが常となっている。
しかし三蔵の手は、更にもう一つの手に弾き返された。

音も無く慈燕と三蔵の間に割り込んだ八戒が、三蔵の前で軽く片手を上げた。
自然体で立つようなその構えが、実は全方位に隙の無い柔術の始挙だと三蔵は気付いただろうか。
一見温和な視線で三蔵を見据えつつ、八戒は背後の慈燕に告げた。

「この場は僕に任せてくれませんか。」
「八戒、俺は」
「子供達には貴方が必要です。」

「八戒と言ったな。貴様、俺の邪魔をする気か。」
「そういう事になるみたいですね。」
「クソが!。」
罵倒の台詞と同時に繰り出された三蔵の拳を、八戒は立ち位置も変えずに伸ばした手の先で受け流した。
「僕、本気になったらそんなに弱くないですから。かといって強くもないんだけど。」
「貴様・・殺す。」

再度繰り出される三蔵の攻撃をかわしながら、八戒は慈燕に瞬間視線を流した。
早くこの場を去れと、そう伝えたのだろう。
勝ち目は無いにしろ負けそうもない八戒の闘いを確認すると、
慈燕は背後のドアに向かい数歩後退った。
それから突然振り向くと、慈燕は駆け出した。

「野郎!。」

八戒との戦いに全ての気を取られていたわけでもないらしい三蔵が、ふと懐に手を入れた。
法衣の合わせから取り出された白い手が握るのは小ぶりの拳銃。
仏門に帰依する最高僧がそんな物騒な物を携帯するとは、庶民には想像すら付かない。
瞬間硬直した八戒の目前で、銃の引金は既に引かれていた。
たった今この場を走り出た慈燕に向けて。
軽快な銃声が手狭な室内に木霊して響いたのは、心理的な余韻だろうか。

「逃げろ、兄貴!!。」

殆ど無意識に、悟浄は三蔵に飛びついていた。
おかげで銃弾は少々三蔵の狙いを逸れたが、それでも慈燕の片腕をかすめていた。
ドアの向こうでは、肩から流れ落ちる鮮血に腕を紅く染めた慈燕が振り向いていた。
彼は何故か、三蔵ではなく悟浄を見つめていた。

「逃げろっつってんだよ兄貴!。つっ立ってる場合じゃねーぞ!!。」

背後から悟浄に両腕を取られた三蔵は当然怒り心頭であり、
密着された不愉快さもこめてか悟浄の胃のあたりにガスガスと肘を入れた。

「離せ馬鹿者!」
「だってアンタ撃つでしょ。」
「悪いか!。」
「殺すことねーだろ何も!。」
「尊属殺人犯の刑を知ってるのか貴様。」
「そんぞくって何。」
「親殺しは拷問の上磔で処刑、今死ねばむしろ楽だ。」
「俺は兄貴を殺させねえって言ってんだよ!!。」
「貴様初めからそのつもりでついて来たのか?!」
「んな考えてねーよ!。」
「先に考えろ愚か者!!。」

怒鳴り合いの内容は微妙に本筋から逸れている。
それはともかく同士討ちの様相を呈してきた二人の間に、小さな影が忍び込んでいた。
しかし飛び入りキャストの正体を見極める前に、悟浄は謎の影の手で鳩尾に一発決められた。

「ぐ。」

小振りで軽快だが充分に重いその一撃は、タフさが売りの悟浄をも地に落とした。
否、ほっとけば落ちるはずだった。
悟浄が膝を落とすよりも早く、次の一撃が脇腹に、そして倒れかけの背中に入っていた。
こんな非常識な決め方をする人間は悟浄の知る限りこの世にひとりしか存在しない。
床にぶっ倒れた悟浄は、相手を確認もせずに怒鳴った。

「野郎!、悟空!!。」

世界最強かと思われた小さな闖入者はしかし、傍らの三蔵に殴られた。

「寺で待てと言っただろうが!!。」
「だ、だって」
「何故言いつけを守らん?!。」
「だって、三蔵とコイツが一緒なんて、危ないじゃん。なんか。」
「理由など俺が聞いたか!!。」

お前今聞いたぞ、と、その場の人間皆が思ったが、
口に出す勇気のあるものはいない。

またしてもただの観客となり下がっていた八戒が「ええと」と声を上げた。

「状況を整理しますと。」

倒れた悟浄に手を貸して引き起こすと、八戒は悟浄の隣に立った。

「2対2、ということですよね。」

三蔵アンド悟空、対する悟浄アンド八戒。
そういう事になるらしい。

「で、今までの流れからすると、僕対三蔵さん、悟浄さん対飛び入りの少年。あ、始めまして。」
「おう!。俺悟空。」

八戒にご機嫌な挨拶を返し、悟空は再度三蔵に殴られた。

「そんじゃまあ、始めっか。」
「うわなんかイヤだなあやっぱり。」
自分で状況を整理したくせに、紫暗の瞳に見据えられた八戒は愚痴をこぼした。

「彼とはすごく闘いたくないなあ。何故でしょう。」
「俺に聞くなよ。お前もしかして面喰い?」
「貴方ほどじゃないですけどね。」
「な、なんで分かんの。」
「なんとなく」

「バカバカしい。悟空、3秒だ。」
「おっけー。」

「止めてくれ。」

今やその影も薄れていた本日の主役は、
チャンスに乗じて逃げる事も無く戸口に立ち尽くしていた。

「まだいたのかよ兄貴。」
「もういい。俺を寺に連行しろ。」
「兄貴!。」
「それで全て片が付く。争い事にはもう飽きてんだ俺は。」
「兄貴・・。」
「立派になったな悟浄。寺の人間を手伝ってるのか。嫌味じゃねーぞ。」
「兄貴、俺はただ」
「身体もデカくなったが、中身も立派になったな。」

慈燕は三蔵に歩み寄ると、その両腕を三蔵の前に差し出した。
先刻銃弾が掠めた肩口から流れる血が、彼の片腕を紅く染めている。

「傷の手当てをしないと。」

八戒は慈燕のシャツを脱がし、その一部を切り裂いて慈燕の肩を縛った。
簡単な手当てを終えた慈燕に三蔵が手を伸ばした。
しかし慈燕の腕を取るはずの三蔵の手に、八戒は血に塗れた慈燕のシャツを押し付けた。

「ここに犯人の残したシャツがあります。」
「あん?。」
「犯人は貴方に追われて逃亡中に崖から落ちて死にました。」
「貴様・・」
「あ、俺も見た。」
「お前ら!!。」
「見た見た。そうだったぞ三蔵。」
「そんな言い分けが通るか!!。」
「僕は通しますよ。命にかえても。」
「何故貴様が」
「だってホラ。」

八戒は軽く微笑んで戸口に視線を流した。
そこにはドアの影から屋内を覗き込む子供の頭が、3つ4つと縦に連なっていた。

「ねえ、お話の続きは?。」
「今、慈燕さんそっち行きますから。もうちょっとだけ待っててくださいね。」
「おじちゃん怪我したの?」
「ええ。でも大丈夫。たいしたことありません。隣の家でもうちょっとだけ待っててもらえますか?」
「はーい。」

パタパタと立ち去る子供達の靴音を背景に、三蔵はひとつ大きな溜息を漏らした。

「崖から落ちたって死体がねーじゃねーか。」
「その断崖の下は海なんですよ。」

三蔵は無言で頭を抱えた。

「それはそれは切立った絶壁で落ちたものはことごとく波に呑まれるしかなく各地から自殺者も押し寄せて・・」
「馬鹿野郎どこだそれは!。」
「そういうとこ地図で探さないとダメでしょうか。」
「・・もういい。」

溜息混じりの投げやりな三蔵の台詞が、つまりは結審となった。

慈燕はただ深く頭を下げた。
悟浄はといえば、胸に湧いた安堵が何となく照れ臭く、視線を外に投げてみたりする。
今や誰もいない戸口付近に、悟浄は子供達の残像を見た。

「やっぱ兄貴にはかなわねえや。」



一件落着の余韻に静まり返った室内で、悟空がふと弛緩し切った声を上げた。

「腹減ったな〜。」
「何か作りましょうか。」
「マジで?!。」
「ええ。じゃついでだから隣に待たせてある子供達も呼んでいいですか三蔵。」

「・・もお好きにしろ。」


- 続 (3/4) -