悟浄の語りで。





「死んで下さい。僕もすぐあとを追います。」

逆手に握った包丁を、ヤツが振り上げた。
俺の頭の中には幾つもの嘘くさい言い訳が駈け巡っていたが
言葉は全て、喉の奥にひっかかったままで、
声さえ出せずに俺はただ後退った。

振り上げられた切っ先も、その向こうのヤツの瞳も、
同様に無機質で、冷めていた。
言葉はもはや無意味だと、俺は悟った。

俺はヤツから逃げるように、ヤツが歩を進めた分だけ後退したが、
それもほんの数歩で俺の背は台所の壁に触れた。

逃げ場は無かった。

俺の見上げた先、
包丁の柄を握るヤツの手に、力がこめられた。

「ウソ・・。」

死ってのは、思った以上に身近であっけなく、
そしてバカバカしいものらしい。
もうちょっと余裕があったなら
今までの人生が俗に言う走馬灯のように駆け巡るんだろうが、
色々と駈け巡るよりもヤツが刃物を振り下ろす方が全然速かった。

目を見開いた俺の鼻先で、やいばがきらめいた。
直後に、ガスっという破壊音が、すぐ近くから、いやもしかすると遠くなのだろうか、
響いたような気がした。
鋭い痛み、もしくは熱を、感じたのは錯覚だろうか。
後はもう、何も分からなかった。


(俺、死んだ?)

静寂が続いたのは数秒、それとも永遠か。
自身の生死は不明のままに、
うっすらと目を開いた俺が確認できたのはただヤツの存在だった。
ヤツは俺に覆いかぶさるように
俺を両腕で挟んでは俺の両端の壁に手を付いて、うなだれていた。

俺は身動じろぎもできず、視線だけを壁の左に流した。
包丁は、俺の耳の上辺りの壁に深々と突き刺さっていた。
そしてヤツの手は、まだその柄を握り締めていた。
どうやら、俺はまだ生きているらしい。

「イヤだなあ。冗談にきまってるでしょう。」


「そそそうだよな。勿論。」
反射的に俺は同意した。
だが俺の声は年寄りのようにしわがれて、自分の声とも思えなかった。

壁についた手と壁に突き刺さった刃物を握った手で
ヤツは俺を壁に追い詰めたまま、
俺と唇が触れそうな至近距離で瞳を上げては、クスクスと笑い出した。

言葉が出なかった。
背筋が冷たくなった。
何故なら、ヤツの瞳はまだ凍ったままだったからだ。

「ああ、怪我しちゃいましたね。」

ヤツは幾分爪先立ちで、俺に顔を寄せた。
ヤツの唇が、俺の目尻をゆっくりと這った。
その感触は柔らかく、妙に熱を帯びていた。
「・・つっ。」

やいばは確かに俺を掠めていた。
ヤツの唇が傷口を這う痛みで、俺はようやくその事を知った。

俺の頬をネコのように舐め上げた後、
ヤツは俺に笑いかけた。

白い陶磁のような肌、色の無い唇。
全ての感情を殺した翠の瞳。
そしてヤツの口の端は、今舐め取った俺の血の紅で染まっていた。
ソツの無い完璧な微笑。
俺は金縛りにあったように壁に背をつけたまま、身動きが取れなくなった。

なのに局部だけが、勃った。

何故だと思う?。

ヤツが俺の血を求めているような気がしたからだ。

好きだと俺に囁きながら
いつも俺を通り越した向こうを見つめているヤツが、
初めて俺を求めたような気がしたんだ。

きっとその時、俺の表情は少し動いたに違いない。
俺と見つめ合ったまま、ヤツは鼻先でクスリと笑いを漏らした。
ヤツは今、俺を嘲笑ったんだろうか。

全てを見抜いた上で、
俺を嘲笑ったんだろうか。



- 続 -



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