Lost Child 〜 保険調査員7


 序章


 夕刻過ぎ。調査室からの最寄り駅となる両国駅近辺では意外にも若者の姿ばかりが目に付く。若者といっても新宿渋谷とは種類の違った若者だ。この地に調査室を構えて四〜五年になるが、予備校が林立する街だったと秀蔵は今初めて気付いていた。車で移動する際には通りすがる人の種類など気にした事が無い。
 会社帰りのサラリーマンと学生の群れに混じり何気なく改札を通過しようとして、秀蔵は自分が切符を買っていないと気付いた。「クソ」と、誰をともなく罵倒(ばとう)しては改札の前で突然振り向き、流れに逆らって人混みを掻(か)き分ける。券売機を探すところからやり直しだと思うと無性に腹が立つ。迷惑を被(こうむ)っているのはむしろ、掻き分けられる人混みの面々なのだが。

 福生の施設跡まで尾(つ)けてきた是音の愛車に同乗し、都内に戻ったのがつい数時間前の夕刻。しかしそのまま自宅マンションに帰っては、尾行者だった男に敢えて寝床を教えるようなものだ。どうせ調べはついているに違いないが。是音の愚痴には取り合わず、とにかく半強制的に調査室まで送らせた。戻るなり、奈拓の実父だという李塔天行の素性を調べた。正確に言うなら次郎に調べさせた。資料待ちの間は特に為すべき事も無く、水槽の上に無駄に餌を撒き散らした。
 
 幸運にも券売機は改札からさほど遠くない場所にあった。切符を売るだけの機械がいつからタッチパネルになったのだろうと訝(いぶか)しがりつつ適当に触ってみるが、そう言えば一体幾ら分買えばいいのかが不明だった。最少額を買って降りるときに精算すればいいわけだが、また一つ手間が増えたと思うともはや全てがイヤになりつつあった。自分と世界を呪ってブツブツ呟きながら再度改札前の人混みに合流する。小銭と一緒につい財布にしまい済みの切符を改札通過直前に取り出したりしてやはり流れを滞(とどこお)らせる秀蔵はタダでさえ目立つ上にその容貌が人目を引く。「モデル?、知ってる?、誰?、うわ美形」などと騒ぎ始めた女学生の集団を殺気立った視線で睨(にら)み付けて黙らせ、兎(と)にも角(かく)にも改札という関門は通過した。帰るだけで大仕事だ。修理中の愛車は一体いつ戻るのか。

 屋外のホームには薄っぺらい屋根が低くかかり、かろうじて昼の青を残した空がホームの屋根と建造物の合間に垣間見れた。数十分後には完全に夜の闇に呑(の)まれるはずの微(かす)かな青は、秀蔵の目に儚(はかな)げに映(は)えた。しかし名残を惜しむ間も無く、視界は騒音と共に滑り込んで来た車両にあっけなく遮(さえぎ)られた。無機質の車体は同様に無機質な顔の一群を吐き出し、入れ替わりに別の無表情な人の群れが乗り込んでいく。流れに身を預けるように秀蔵も車体に乗り込んだ。秀蔵にとっては稀(まれ)な大仕事の電車通勤も、この場に居合わせる人間の殆(ほとん)どにとってはありふれた日常なのだろう。日常とは大凡(おおよそ)が無意識に流れていく。例えそれが幸福であっても不幸であっても。
 充分に混雑した箱の内側、帰宅ラッシュの始まるこの時刻に当然座れるはずもなく、立ち位置さえ選べず人の流れが勝手に身体を押し込んでいく。つまり押し込まれたその場が立ち位置だ。箱の中央付近、ホーム側に向かって吊り革を握れば、次の電車を待つ人混みが窓越しに見渡せる。表情を失った人の群れという景色は渋滞の首都高以上に殺風景だと、秀蔵はそんな事を思う。
 その死にかけた風景に、ふと違和感を感じた。
 秀蔵から左手側、ホームの最前列に一人の男が立っていた。普通に次の電車を待っているようにも見える。しかし無意識に日常を連ねる人の群れの中で、確固たる意志のオーラを纏(まと)う彼のみが浮き立つように見えた。『見えた』と言うより『感じた』と言うべきなのかもしれない。
 中肉中背のその男はパーカーの帽子部分を頭上からすっぽりと被(かぶ)り、両手をポケットに突っ込んでいる。彼の横顔は柔らかな素材の布に覆われて見取れず、年の頃すら分からない。なのに秀蔵には自分は彼を知っていると、そんな予感が渦巻いた。何故か鼓動が高まっていた。
 ホームに駆け戻り彼に対峙することを思ったが、目の端で確認すれば車両のドアはたった今閉まるところだ。間もなく車両はゆっくりと線路上を滑り出した。窓向こう、秀蔵の左手に立つその男の前を、車両は加速前のスローペースで通過しつつあった。ホーム最前列に幾分前屈(かが)みに立ち尽くす彼の前を秀蔵が通過するまさにその瞬間、男は目を上げた。
(!!。)
 動きだした電車の窓に秀蔵は思わず両掌(てのひら)を叩き付けた。窓下の席に座るOLとサラリーマンの間を割って突然窓に貼り付いた事になる。押しのけられたOLは反射的に悲鳴を上げたが、今の秀蔵にその声は届かない。
 男は窓越しに秀蔵を見据えていた。
 正面から見る男の顔面は異様としか言いようがない。それは例えるなら、ありあわせの皮をつなげて作った悪趣味なパッチワークの人形であり、恐怖映画の特殊メイクを思い出させた。一度見たら忘れるはずもないその強烈な人相にはしかし、見覚えは無かった。
(誰だ貴様!。)
 心で叫んだ問いとは裏腹に、「俺はヤツを知っている」という思いが繰り返し秀蔵の胸を突き上げた。
 僅(わず)か数秒で車両は男の目前を通過した。幾ら窓に貼り付いて目を凝(こ)らしたところで今やホーム自体が秀蔵の右手奥に消え去ろうとしていた。もはや男の表情は見取れない。遠く小さな影となった男は顔だけを向けて車両を、否、秀蔵を見送っていた。
 彼を見失う恐れに秀蔵は振り向き、車内に隙間無く立ち尽くす人の壁を力づくで掻き分けた。どうしても彼に会わなければならないと、その思いだけに駆り立てられていた。しかし既に電車は充分に加速を終え、夕刻過ぎの闇を裂き走り出している。車内で走ったところでどうしようもない。
 乱雑に押しのけられた学生や会社員が「うわ」「いやっ」と悲鳴を上げた。秀蔵の背には「何だコイツ!」と非難の声が浴びせられた。しかし何者をも意に介さず人混みを掻き分け数十歩進んだところで、隣の車両との連結部分に辿り着いただけだ。横開きのドアを開けて隣の車両に乗り込んで一体どうするのか。最端車両まで辿り着いても意味は無い。ようやく理性が戻りつつあった。
 動悸(どうき)が速まり冷や汗が流れ出ているのを自覚した。秀蔵は車両連結部のドアに額を押しつけた。落ち着けバカ、と心で自分を罵倒(ばとう)した。
 何故あの男に会わなければならないのか。それは彼が一体何者かを聞き出す為だ。
(違う。)
 幾つかの人格の断片が秀蔵の中で蠢(うごめ)き始めていた。
(何故違う。)
(ヤツを俺はもう知っている。)
(そう、知っている。)
(俺はヤツを知らない。あんな人相を忘れるはずが無い。)
 吐き気と眩暈(めまい)が同時に押し寄せていた。足元が崩れそうな予感に、秀蔵は身を屈(かが)めてドアに押しつけた額に力を込めた。
(知ってるよ。)
 幼い子供の声がはっきりと秀蔵に告げた。
 その瞬間、秀蔵は繰り返す夢の風景の中に立ち戻っていた。
 視界の果てまで続くアスファルトの滑走路。路面を真夏の陽射しに焼き、大気を陽炎(かげろう)のように揺らめき立たせている。秀蔵のすぐ目の前には少年の後ろ姿があった。少年は金網に指を絡(から)ませ、テイクオフを待つ鉄の鳥に魅入っている。しかし少年は背後の存在に気付いていたかのようにゆっくり振り向いては、秀蔵に告げた。
(アイツだよ。あんときの。)
 眩暈が止まらなかった。
 ドアに額を押しつけるだけでは足らず肩も押しつけたが、それでもズルズルと揺れる床に崩れ落ちた。「大丈夫ですか」と囁(ささや)かれた耳元の声に振り仰ぐことすらできず、「ほっとけ」と蠅を払うような片手の動きだけで伝えた。

 秀蔵の中で、何かが目覚め始めていた。

続.


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