Be'elzebub 〜 保険調査員6


 序章


 真夏の太陽の下、果てしなく続く滑走路はアスファルトの路面を陽に焼いて、熱い大気を陽炎のように揺らめき立たせる。大型車両の通過音にも似た地上滑走(タキシング)を経て機体はランウェイ端で管制の指示を待つ。尾翼を輝かせテイクオフに臨むのはF14。金属音を孕んだターボファンのタービン音が高まりつつあった。滑るように走り出す巨大な鉄の鳥は徐々にその加速を増し、幼い秀蔵の視界の向こうへとサイズを縮めていく。
 秀蔵が見守る中、耳の奥をつんざく轟音を残して機体は空へと駆け昇った。灰色のアスファルトから、遠く輝く青い空へ。
 夢だと知っていた。
 幼い頃に繰り返し見た光景は記憶に刷り込まれたのだろうか、今でも頻繁に夢に見る。夢はいつも現実と同じリアルさで、眩(まばゆ)い陽射しと照り返すアスファルトの熱、それに機体のアフターバーナーが吹き出す炎の熱をすら運ぶ。
 かつて収容されていた施設は、その建設区分の一辺を米軍基地に隣接させていた。金網のフェンスを握りしめ、日に何度となく飛び立つ飛行機を飽きもせずに見送った。それはまだ彼が『秀蔵』と呼ばれる以前。
 遠い空の彼方に何があると思ったのだろうか、金網のフェンスで区切られているのは向こう側の基地のはずだが、幼い秀蔵にとって隔離されているのは自分側だった。
 飛び去った機体は今や遙か彼方の空で小さな点となり、キラリと小さな反射光を輝かせたのを最後に、雲の間に消えた。
 夢で繰り返される心象風景は、当時抱えていた胸の痛みまでをも再現する。夢を夢と知りつつ、繰り返される想いに身を委(ゆだ)ねて機体の消えた遠い空を見上げ続ける。『閉塞感』とか『自由への憧憬』とか、そんな語彙があれば当時の胸の内を多少は整理できたのだろうか、しかし変えられない状況を整理したところで意味は薄い。

「こんにちわ。」
 知らない声に呼ばれてふと視線を戻せば、金網のすぐ向こう側、手の届く距離で、一人の少年が秀蔵を見上げていた。初めて見る顔だった。彼の上向きの目線から、秀蔵は自分がもはや子供ではない事実に気付く。おそらくは少年の目線が秀蔵を現在の自身に戻した。だとすれば彼は現実の秀蔵を知っている事になる。見知らぬ少年の知性を湛(たた)えた瞳は、秀蔵の心象風景にとっては異物だった。
 誰かが夢に入り込んだのだろうか。果たして他人の夢に入り込むなどという事が可能なのだろうか。しかし思い起こせば、秀蔵の人生全てが可能であるはずのない事の連続だった。
「誰だ貴様。」
「なあ、アイツの事頼むよ。」
「・・吾一か?。」
 何故見知らぬ少年の言う『アイツ』が吾一だと思うのか秀蔵自身分からない。浮かんだ想いをそのまま口にしただけだった。目前の彼の歳の頃が、姿を消したままの吾一と同じ位に見取れたからだろうか。
 秀蔵の言葉に、金網の向こうの少年は朗らかな笑みを浮かべた。
「うん。アイツ、あんたのことすごく好きだから。」
「そりゃいい迷惑だな。」
 ハハッ、と声をあげて少年が笑った。
「頼むよ。オレもうすぐ行かなきゃなんないんだ。」
「吾一を呼んだのは貴様か?。」
 秀蔵の問いには答えず、少年は瞳を伏せると身を翻(ひるがえ)した。瞬間垣間見せたその表情は歳の割りには大人びて、一抹の哀愁すら感じさせた。軽く手を振って駆けだした小さな背をただ見送るつもりが、何かに急(せ)かされる気分で秀蔵は叫んだ。
「坊主、名前は?!。」
「奈拓。」

『ナタク』
 振り向いた少年が叫び返した言葉を呟くように繰り返すと、秀蔵の周りで突然風景が溶け始めた。あたかもその言葉が覚醒の呪文であるかのように。

  ◇◇◇

 目覚めたその場所は、自宅マンションの寝室。東向きの大きな窓からはいつも通りに涼しげな朝の陽射しが差し込んでいる。誰かに見られたわけでも無いが、妙な文句を呟(つぶや)きながら目を覚ました自分に具合の悪さを覚えつつ半身を起こすと、秀蔵はベッドの上でボリボリと頭の後ろを掻いてみたりする。
 醒(さ)めきらないままの頭で短い廊下を歩き、リビング兼ダイニングに備え付けのキッチン前で歩を止める。既に挽(ひ)いてあるコーヒー豆を缶から適当にフィルターに投げ込んでコーヒーメーカーのスイッチを入れるまでの動作は身体が覚えているから、夢遊病者のように無意識のまま行われる。自分が果たしてコーヒーを飲みたいのかどうかこの時点で定かではないが、挽いた豆の香りは寝起きの気付け薬になる。
 朝の定位置であるリビング兼ダイニングの椅子に辿り着く前に、キッチンカウンターに入り込み冷蔵庫を開けると、秀蔵は一リットルの牛乳パックを手に取った。ふと、何故だろうと思う。牛乳が必要だったのかどうか。
(クソ。)
 いつの間に朝の一連の動作に妙な割り込みが組み込まれていた。そう、朝の牛乳は吾一のものだった。吾一がこのマンションで過ごしたのは僅(わず)か数日であるのにもかかわらず、彼が姿を消してから、朝の秀蔵は同じ失態を繰り返し続けていた。
(クソが。)
 誰に対してなのか分からない罵倒を胸の内で繰り返して牛乳パックを冷蔵庫に戻し、膝蹴りで扉を叩き付けた。一杯分のコーヒーがドリップされる短い間のあとは再び無意識の動作でサーバーに抽出されたそれをカップに移し、窓際の指定席に腰を降ろす。地上十四階建高層マンション最上階の一室からは、いつも通りの灰色の街並みが見下ろせた。
 吾一がいないせいで、メシだのパンだの足りないのこぼしただのと朝の食卓をかき乱される恐れもないが、それ以前にさして食欲も湧かない。淹れ立てのコーヒーカップをただテーブルに置き捨てると、秀蔵は煙草をくわえて火を付けた。
 考えるべき事があった。
(『ナタク』。)
 夢の中で告げられた呪文を繰り返して、何気なく窓の外に視線を投げる。下界に広がる建造物の無機質な造形は、女子大、医療施設、大使館といったこの国でも数少ないハイソな鳥瞰図(ちょうかんず)だ。年中空調の効いた快適な室内から上品な街並みを見下ろしつつも、秀蔵の心は夢で垣間見た過去にとんでいた。真夏の太陽が焦げ付かせた金網の熱、焼けたコンクリートの滑走路で揺らめく陽炎。
 夢こそがむしろ現実めいたリアルさを携(たずさ)えていた。
 記憶を辿っても「ナタク」という単語に心当たりは無い。夢の少年の姿にも覚えは無い。しかし何故だろう、まるで知らないわけでもないような気がしてならない。秀蔵の場合、予感は往々にして真実を衝(つ)いている。だとすれば過去のどこかの時点で、あの少年に巡り会っているのだろうか。
(サルに『ナタク』に、昔の俺、か。)
 秀蔵は自嘲(じちょう)を込めて呟(つぶや)いた。どういうわけかガキばかりだと、そう思う。
 夢の中に勝手に現れた少年など、単に忘れ去ってしまえばいい。現実の生活に突然飛び込んで来た吾一の件にしても、初めから無かった事だと思えばそれで済む。なのに捨て置けないのは、象徴的な意味であるにしろ、彼らは秀蔵自身だった。秀蔵の中で、幼い少年は過去のあの風景の中に独り取り残されたままでいる。
 いつの間に短くなった煙草に気付いて揉み消すとあとは手持ちぶさたになり、秀蔵は淹れ立てだったはずのコーヒーに手を伸ばした。カップの中で揺らぐ暗い色の液体は既に冷めはじめているに違いない。淹れ立てでも美味かった例しは無いということは、賭けてもいいが冷めかけは更にマズイだろう。豆は悪くないのだから淹れ方が悪いのかもしれないが、試行錯誤もしないまま今に至る。秀蔵は無言でコーヒーカップをテーブルに戻すと、新しい煙草をくわえた。
 施設の頃の記憶には、曖昧な部分が多かった。
 物心付いた時分にはもうその場所に居た。不愉快な場所だったという漠然とした想いがある。
 「検査」や「テスト」は頻繁に繰り返された。常人なら三〇歳を過ぎた頃に年一度の恒例となる人間ドッグを週に数回受け続けるようなものだ。その上に紙の裏の絵を当てろとか同じカードを選べとかくだらないタスクを与えられ続け、カードをひっくり返すかわりに机をひっくり返して担当医に殴られるといったバカバカしい日常を連(つら)ねた。だが、記憶の底に淀む不愉快さの根源はそれだけなのだろうか。『プロジェクト』のキーワードと共に湧き上がる殺意は一体何に向いたものか。
 要因は恩師の死だろうと、そう思い続けてきた。
 閉塞した研究所から秀蔵を連れ出した恩師は、幼い秀蔵を観世に引き渡した後、施設に連れ戻され死んだ。しかしそれは、ある部分秀蔵の推測でもある。
 恩師を追って夜半過ぎ施設に忍び込んでも、そこには既に彼の姿は無かった。殺されたのだろうと推測し、悔し紛れに火を付けて回った。一体、何を根拠にそう思ったのか。
 抜け落ちた記憶の闇の内に、未だ幼い秀蔵自身が囚われていた。
 そして同質の闇から、吾一は駆け出して来た。
 今や吾一はその姿を隠し、同じ闇から夢を経てもう一人の少年が助けを求めていた。

 夢よりも現実感の薄い幾何学的な建造物の配置を見下ろしながら、秀蔵は苦い煙を吐いた。俺は俺自身の『力』を恐れていたと、その事実に幾許(いくばく)かの後悔が湧いた。
 『力』を持つ己が過去の全てを取り戻せば、間違いなく多くを破壊せずにはいられない。不用意に解放されたそれは、モノをブチ壊すのみならず、必ず人をも傷つける。おそらくは無関係な人間、そして秀蔵を擁護する側に回った数少ない者をすらも。
 忘れたままでいられるのならば、つまり幼い日の少年が金網に囚われたまま空を仰ぎ続ける事で多くを破壊せずに済むというなら、安い代償だろうと思えた。しかし今、報(むく)われない過去の少年は足枷となって、同じ闇から這い上がろうとする二人の少年を捉えて離さない。

(辛かったのか?、お前も。)
 真夏の太陽に焼かれた金網を握りしめる遠い日の少年に、秀蔵はふと心で問いかけてみた。しかし、幼い日の自分はもはや距離がありすぎて別人格の他人めいていた。今更素っ気なく語りかけてみたところで、かつての自分であるはずの少年は、侮蔑を込めた一瞥(いちべつ)を投げかけてくるだけだった。

 そしてそれはまさしく現在の秀蔵が他人に向ける顔だと、秀蔵自身気付いただろうか。

続.


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