Guardian 〜 保険調査員4



 序章 1    〜 紫苑&是音 〜

 長野県北佐久郡軽井沢町。
 地名は軽井沢の内だが、駅やハイウェイ沿いからも離れた山間部の別荘には普段訪れる客も無い。地図にも載らないけもの道の奥に好んで入り込むものも少ないだろう。
 建て売りでは有り得ない山間部に特注で作らせたログハウスの一軒屋には、オーナーの趣味だろうか、四畳半の茶室が備えられていた。

 引き戸の障子越しに差し込む淡い陽光の中、茶室では炉を挟んで二人の男が向かい合わせに座っていた。
 もてなす亭主の側には長髪の着流し姿の男。年齢の割に早く色の抜けた髪は、白髪というより銀髪の輝きを保っている。炉の前で正座し茶を点(た)てる彼の、真っ直ぐに伸びた背筋や茶器を取り回す姿には気品が漂っていた。
 一方、彼とは対照的に、対面の客人側の男は正座に慣れないらしく、尻の下で足指をもぞもぞと動かしてみたりする。短か目に切った髪をオールバックに撫で付けているが、整髪自体が無造作なために堅い髪があちこち跳ね上がっている。汚れたジーンズにMA-1のジャケットといったカジュアル過ぎる風体からして、おおよそこの場には相応しくない。

目前に置かれた茶碗を、短髪の男が憮然とした表情で手に取った。
「オイ、飲む前に回すんだっけか。」
「そうですね。軽く二回程。」
「角度は。」
「は?。」
「回す角度だよ。一八〇度二回まわしたら元の位置に戻るけどそれでも構わねえか。」
 何かを答えようとした長髪の男は、迂闊にも鼻先でフッと笑いを漏らした。自分の不手際を取りなすかのように、銀髪は前以上に真顔で答えた。
「では四十五度ほど。」

 短髪の男は指示通りにきっちり四十五度づつ二回、茶碗を自分の手の中で回した。
「これで九十度。」
「言わなくて結構。」
「(直・角。)」
「足して四十五度のつもりでしたがまあいいでしょう。」
「・・。」
 茶碗を振り仰いで薄茶を一気に飲み干した短髪に、銀髪が優雅な笑みで訊ねた。
「いかがですか?。」
「苦い。」
 正直な意見に、銀髪は溜息をついた。
「それに足が痺れた。」
「・・場所を変えましょうか。」
 おもむろに立ち上がった着流しの後ろ姿を見上げて、初めからそうしろよ、と短髪が愚痴っては後を追った。

 茶室の東側に面した引き戸を開けた先、軒下の縁側に銀髪の男は先に腰を下ろした。痺れた足を引きずりながら短髪が隣に座り込んでは胡座(あぐら)をかいた。二人の視界には果てしなく広がる八ヶ岳山系の緑が連なって広がった。

 短髪の男は是音一臣。元自衛隊一等陸佐であり銃機器の取り扱いに長(た)けていた。長髪の男は紫苑馨。体術全般を得意とする。是音同様一等陸佐として一連帯を率いていたが、是音と共に引き抜かれ、存在しないはずの第九師団員となった。暗殺部隊とも呼ばれた第九師団を率いたのは当時陸将だった穂村世紀だが、第九師団の設立を当時の事務次官に働きかけて政治的に手綱を取ったのは叩き上げの代議士、李塔天行。
 憲法に依(よ)ればこの国は軍隊を持たない事になっている。「警察予備隊」がいつまでも「予備」のままではなんだからと「自衛隊」と名を変えた武装集団は、「武力」それ自体に疑問を持ったまま実戦の機会もない演習を繰り返している。いつまでも思春期の少年のように曖昧な力へのモラトリアム中の自衛隊に於いて、迷うことなく「力による統率」を志向した穂村は、右寄りの集団の中ですら危険思想として嫌遠された。
 その穂村に李塔が目をつけた。李塔が求めたのは力それ自体ではなく、むしろ力による統率でもたらされる権力だった。しかし、二人の利害関係は一致した。李塔は手持ちのコネと政治力を背景に、穂村の『力』を余すところ無く発揮できる場を提供した。穂村率いる暗殺部隊は国内部の密通者やテロ集団を闇から闇へと葬り、李塔は権力の場で偉大な実権を握った。しかし暗殺部隊の蜜月は、もう数年前の昔話となった。
 穂村が病に倒れ第九師団がその任を果たせなくなった途端、暗殺部隊は暗殺される側へと転じた。闇を知る者のお決まりの末路と言える。第九師団解散後四年を経た今、当時十数名いた団員の生き残りは是音と紫苑、そして穂村のみとなった。

 高地特有の潤いを含んだ爽やかな風を受けて、是音は大きく息をした。都会の喧噪(けんそう)のなかでは味わえない開放感があった。
「あの頃は狂ってたな。俺もお前も、穂村も。」
 生来細い目の紫苑は、ただ黙ってうつむくだけで微笑んでいるようにも見えなくない。答えが無いことを気にかける様子も無く、是音は独り言のように話した。
「俺は惚れた女を殺されて、世界中の人間を殺してやるくらいのつもりになってた。穂村は、アイツは元から狂ってて、人並み外れて強いくせに絶対満足しない。『力』を欲しがっては『力』を憎んでた。そんでお前は・・。」
 言い淀んだ是音を促すように、紫苑が是音に振り向いた。
「お前はアイツに狂ってた。」
 紫苑はふと顔を伏せては、クスクスと笑い声を漏らした。
「ええ。だから、生き残って正気を取り戻したのは貴方だけかもしれません。彼は、穂村は、未だ『力』を求めています。そして私もあの頃のままです。変わりはありません。」
 自分は未だに彼に狂っていると臆面もなく告白した紫苑の前で、むしろ是音が動揺してポケットを探った。にこやかに笑いかける紫苑の視線を受けかねて、是音は取り出した煙草を一本くわえては火を点けた。

「俺を呼んだ理由を言え。俺は苦い茶を飲みに来たわけじゃないぞ。」
「私は貴方をお茶会に御招待したはずですが。」
「オイ・・」
「それに貴方にお出ししたのは宇治の一級品です。苦いとしか感じられないとしたらそれは貴方の味覚が無粋だからで・・」
「待てよ、俺は隠居爺イの茶飲み友達として呼びつけられたのか!?。」
 くわえた煙草を手に取る前に叫んで、口からそれを取り落としそうな勢いの是音の前で、紫苑はただ肩をすくめてみせた。

「四年ぶりの指令です。」
 山並みを振り仰いで話し始めた紫苑に、是音は口を噤(つぐ)んだ。
「失われつつあった穂村の『力』を取り戻すために、かつて、民間のプロジェクトが関与しましたね。覚えてますか。」
「確か米軍資本の製薬会社だったな。」
「吠登製薬です。正確には新薬研究所のみが米軍の援助を受けていました。研究を潰しにかかった内調に『様子見』と国家の中枢が圧力をかけたのは、可能なら穂村の『力』を取り戻し、再度利用したいとの含みがあったからです。」
「『暗殺部隊』の『力』を、な。」
「ええ。しかし失敗した。その時点でプロジェクトは潰されたものと思っていました。でも、続いてたんです。日本ともアメリカとも薄い繋がりを保ちながら、吠登製薬自体の意図で。」
「どういう事だ?、民間の製薬会社に何か得があるとも思えねえ。」
「分かりません。研究者の暴走という噂があるだけです。」
「気違いは李塔と穂村の他にもいるってか。」
 紫苑は答えず、着流しの袖の下から一枚のスナップ写真を取り出しては是音に手渡した。
「身柄確保の対象、研究所で『独自に開発された機密』だそうです。」
「・・ガキじゃねえか。」
「誰かを、思い出しませんか。」
 何かに気付いたように是音が瞳を上げた。視線の先で微笑んだ紫苑の瞳の奥の憂いに、是音は遠い日の喪失感を思い起こしていた。
「奈拓は死んだんだ。」
「分かっています。でも・・」
 苛立ちを隠せずに、是音は紫苑から視線を背けては何度も紫煙を吐いた。奈拓を殺したのは自分達だと、おそらく紫苑は今もそう感じている。
 果てしなく『力』を求める穂村を、いずれは仕切り切れなくなることに李塔は気づいていた。だから後継者を養成した。決して自分を裏切らない幼い一人息子をその任に当てて。

 第九師団のオーナーとも言える李塔からの指示を断る理由はない。師団は奈拓を暗殺者として養成した。是音は銃器の取り扱い、紫苑は体術を教えた。穂村が仕込んだ『力』の使い方を、奈拓が果たして会得したのか知るものはいない。穂村はガキを面倒がり、是音はつい喧嘩をしかけるので、自然に紫苑が奈拓の担当となった。それにその任を紫苑自身楽しんでもいた。教師と教え子として、時には友達として、あるいは本当の親子のように、二人は数年の時を過ごした。しかし、奈拓は演習の最中に胸に銃弾を受けて死んだ。銃の暴発というあっけない事故だった。
 奈拓の死後、紫苑は以前にも増して寡黙になった。第九師団の解散後、紫苑が山奥に籠もり仙人めいた世捨ての生活を始めたのも彼の死が無関係ではないと、是音はそう感じていた。
「私は、まだどこかで奈拓が生きているような気がしてなりません。」
「身近なヤツを失えば大体がそんな気がするもんさ。」
「どこかで私を呼んでいるように感じるんです。」
「・・とうとう呆(ぼ)けてきたか。」
 短くなった煙草を軒下に放り投げると、是音は遙か遠くの山並みに振り返った。清廉な森の風が二人の間を吹き抜けた。ここはいい場所だ、と是音が呟(つぶや)いた。
「だがな、静かすぎる。」
 紫苑は答えずに、ただ伏し目がちに微笑んだ。
「久々の仕事だ。俺はノるぜ。一度は死にかけたくせにまだ『力』を求めてるって穂村の狂いブリは正直気に入ってる。俺は仙人みたいに山ん中でしなびるよりはアイツと狂い咲く。」
 いい歳をした大人が、悪い遊びを覚え始めたばかりの少年のように片頬で笑った。
「で、お前はどうするよ。どっかで呼んでる奈拓の亡霊は『もう闘いは止めて』なんて囁いてんのか。」
「全く、イヤな人ですね。」
 紫苑は是音の言葉を受け流した。内心の葛藤が無いはずはない。しかし答えは既に出ているのだろう。その前に紫苑が是音を呼ぶはずは無かった。例えそれがかつての戦友であっても。
「彼の要請を私が断る理由はありません。」
「惚れた弱み、ってヤツか。」
「私は彼に今でも『狂ってる』んですから。貴方もご存じの通りに。」
「・・それはそれは。」
 多少のおどけも混じえて是音は溜息をついてみせた。その彼に柔らかく微笑んで、紫苑が話し出した。
「手順をお話ししましょう。確保対象の居住地は特定されています。急ぐ必要はありません。それより『機密』が覚醒したあと、誰がどんな方法で状態回復を図っているのかが疑問視されています。対象は現在内調の監察下にあり、内調の調査員の他に二人の成人男性が張り付いています。まずは彼らの力量を試したいと思います。よろしいですか。」
 本題に入った紫苑の瞳からは世捨て人の憂いは払拭(ふっしょく)されていた。淀みなく語られる戦略の冴えは、第九師団参謀現役時のままに変わらない。


 序章 2    〜 丈&戒爾 〜


 薄汚れた歓楽街のバーの片隅。
 カウンターの一番隅に陣取って、丈は肩をひそめるように薄い酒を舐めていた。一八〇を超える長身とそれに見合った肩幅をいくらすぼめてみたところで、手狭な店内で紅い長髪の大男が目立たないはずもないが、普段の彼を知る者ならいつにも増してしょげかえっているように見えるかもしれない。まあ丈がここ斉藤の店に寄るのはロクでもない事が起こって派手にくりだす金が無い日なわけだから、この場所で丈が溌剌(はつらつ)としていた事は余り無い。
「丈さん、それでどうなったんスか。結局、金、回収できた?。」
「うるせーよ、俺が何で葉介に報告しなきゃなんねーんだよ。あっち行けコラ。」
「うわ。」
 隣席から丈を覗き込んだ高校生くらいの少年は、「あっち行け」と丈に何度も細かく足を蹴られて、すごすごと一つ隣の席に移った。丈の足が届かない距離で、葉介はもう一度丈を呼んだ。
「ねえ、丈さんてば。」
「声かけんな俺に!。」
 グラスを拭く手を止めて、カウンター内側の斉藤があいだに入った。葉介の前で軽く手を挙げて、その位にして、と無言で示した。
「これ以上聞くまでもないと思うね。言いたくないのはそういう事。ハイ葉介。」
 差し出された斉藤の手のひらの前で、ふくれっつらの葉介が財布を取り出した。丈が横目で見守る中、葉介は数枚の札とコインを斉藤に手渡した。
「賭けてやがったなお前ら!。」
「どうもお陰様で。」
 思わず叫んで立ち上がった丈に斉藤は屈託無く笑い、丈の前で数枚の千円札を振って見せた。
「コレ、丈さんのツケの払いに回しときますね。」
 そう言われると返す言葉も無い。怒りのやり場もなく、丈は一度は上がりかけた肩を前より落として元の椅子に座り込んだ。
(全く、どいうもこいつも。)
 まったくもって、どいつもこいつも、だった。具体的に言えば、葉介も斉藤もサルも美人の調査員も戒爾も兄貴の野郎も、だ。今日初めて見た知らない女も加えるべきか。あの女は戒爾を殺すつもりだった。
(・・・。)
 丈の手の中で背の低いグラスの氷が溶け始めていた。ボトルの酒を切らさないようにゆっくり飲んでいるもんだから、氷ばかりが溶けて酒の味がしない。

 保険の調査などというおよそ縁遠い仕事を終えたのがまさに今日。本来なら今夜は打ち上げも兼ねて新宿にリベンジに出るつもりだった。イカサマ調査室の支払日を聞くのを忘れたが、曲がりなりにもお堅そうな仕事をやってのけたのだ、キャバクラの呼び込みやピンサロの看板持ちよりはいい実入りになるだろう。それを見越して前借りで当たるつもりだったが、もはやそんな気分にもなれない。戒爾は、どこに行ったのか。
 東日本開発での乱闘劇の後に開発部長の佐間サンに話をつけて、一件落着したのが昨日。今朝は戒爾と秀蔵が大江戸海上火災関東支店に事後報告行き、丈は吾一の監視役で調査室に残った。監視と言ってもさすがに二日続けて気違い沙汰が起こるとも考えにくく、吾一とくだらない喧嘩を繰り返しながら時間を潰していただけだ。昼頃には殴り合いにも飽きた。煙草も切れたし気分転換にと思って調査室を出た。吾一をひとりにしたのがバレたら戒爾に口やかましく言われるだろうから、煙草だけ買ったら戻るつもりだった。
 調査室が入居しているテナントビルの一階部分は駐車スペース。二階の調査室から階段で下に降りかけて、丈はふと、手すり越し向こうの階下、駐車場の隅に人影を見た。遠目には男女のアベックかと思えた。しかし、男の生真面目そうなスーツの後ろ姿には見覚えがあった。戒爾だった。
 一方の女も地味なスーツだが、女の場合、地味なスーツは二種類にしか着こなせないと丈は思っていた。つまり、すごく色っぽいかすごくダサいか、だ。片手を腰に当てて戒爾に詰め寄るその女は、紛れもなく前者だった。
(なんだアイツもやるじゃん。)
 そんな事を思っては、冷やかしの気持ちも混じえて階上からしばし見学させてもらった。「相変わらずおめでたいのね」とか「あなたは彼の事が」とかそんな台詞が切れ切れに聞こえた。痴話喧嘩かなと思えた。ひとしきりまくし立ててから、女は戒爾を誘惑するように見上げては手を伸ばした。女はキスを求めている。戒爾は棒立ちのままだ。
(気がきかなねえなあ。)
 アイツにはいろいろと教えとくことがある。そんな事を思って見つめる丈の視界の先、戒爾の背後に回された女の指が下手な手品師のように動いた。女はスーツの袖口から、細く光る何物かをゆっくりと取り出すところだった。
 危ない、逃げろ、と、丈が叫ぶより先に戒爾が動いた。
 仕掛けられたキスを受けて抱き寄せるかのように、戒爾の手が女の肩口を握った。利き手の肩を握られた女の手が妙な具合に曲がった。女は顔を歪めて何かを取り落とした。戒爾は女を突き放すと、身を屈めて何かを拾った。女が落としたそれは、千枚通しに似た鋭利な針状の何かだ。戒爾はそれを女に見せつけるように目の高さに上げた。
「貴方は一途な女性だ。何故彼を選んだのかは分からないけれど、心変わりするなんて嘘は見え透いてる。」
 戒爾の言葉が丈の耳にも届いた。
「彼から逃げるなんて無理よ。貴方も被験体も。」
「努力くらいはしてみるつもりです。少なくとも吾一だけは戻しません。」
「彼を止めたいなら・・アナタにお願いしようかしら、保険屋さん。」
 女は皮肉っぽく笑った。
「いずれ仕事を入れるわ。せいぜい気を引き締めて調査してみることね。」
 妙な捨て台詞で女は戒爾に背を向けた。その後ろ姿を戒爾は追わずにただ見送った。あの女が敵なら、何故野放しにするのだろう。
 イヤそもそも敵とは何だ。あの女が何者か以前に戒爾が何者なのか。今更の思いを抱いて丈は女の締まったラインを見送った。女は肩口を押さえながらも、路上の通行人としてまばらな昼下がりの人混みに静かに紛れようとしていた。
 女が見えなくなる頃、丈に見守られているとも知らず路上駐車中の車がゆっくりと動き出した。青とも緑とも付かぬ珍妙なカラー、こじんまりとしたボディ、「青春のスターレット」。
(兄貴・・。)
 いくら中古とは言え妙な車を買ったな、と悪態をついたのを覚えている。数年前だ。「どこが馬鹿だ『青春のスターレット』だぞ」と即座に返されたが、そんなCMの文句を覚えているのは年寄りだけだ。
 クソ兄貴はあの女を追っていた。かつて新宿で戒爾をとっつかまえようとした兄貴。一体何がどうなっている。全てを戒爾は知っているのか。
 丈は階段を駆け下りようとした。しかしその足は一歩も踏み出す事なく止まった。何故なら階段の下では、秀蔵がくわえ煙草で、走り去るスターレットの尻を見送っていたからだ。秀蔵は今までの一部始終を黙って見ていたのだろうか。

「ああ、丈。それに秀蔵も。」
 一番先に口を開いたのは、振り仰いだ戒爾だった。
 秀蔵はくわえた煙草を投げ捨てると靴先で揉み消しながら、睨むように戒爾を見据えた。そういえば同じ場所に出たはずの二人が何故別行動しているのか。聞くべき事が多すぎて何から口にすべきかを丈が思いつくより先に、戒爾が下から叫んだ。
「丈、僕先に戻ってますから。」
 待て、と、何故か丈は言いそびれた。
 立ちつくした丈の脇を階段を上がり来た秀蔵が擦り抜けた。すれ違いざま、秀蔵は丈に「ご苦労だったな」と声をかけた。秀蔵らしからぬ台詞だった。思わず振り向いた丈に、秀蔵は背中越しに話した。
「今回の調査はお前のお陰で助かった。だが、これきりだ。」
「一体・・。」
「お前はもう関わらない方がいい。俺にも、戒爾にも。」
 丈に背を向けたままそれだけ話して、秀蔵は調査室へと消えた。
 誰もいなくなったテナントの階段付近に、丈はしばらく呆(ほう)けたまま立ちつくした。


(一体全体何が何だか・・)
 軽く振ったグラスに氷が当たる音がしないのに気付いてふと見れば中は水だけだ。元々薄い酒は更に薄まって、色からしてタダの水以外の何モノでもない。こうなるともはや口をつける気もしない。ほんの少しだけ注ぎ足すつもりで丈はボトルをゆっくり傾けた。少しづつ少しづつ角度を上げたが、それはグラス上に垂直に立ち上がっても二,三滴がこぼれ落ちただけだった。
「おーい斉藤、新しいボトル入れて。」
 タダしツケで、と小さく付け加えた。
「葉介との掛け金もっと上げとくんだったな。ウチ一番安いのでも四千円なんですよ。」
「じゃ五百円払うから。」
「・・。」
 金の交渉が百円単位になってきた。男として余りにも見苦しくないだろうか。本来なら大問題だが、今は問題が多すぎた。何かを考えようとするのだが、もはやどこから考えるべきか正直分からない。腹も立っているが誰に対してもそこそこムカついており、同様にそこそこ分からないわけでもなく・・イヤ違う。分からなかった。そもそもイカサマ調査員の怪しげな技は何なのか。そしてサルは人間なのか。
 本格的に頭を抱えた丈を一つ隣の席から眺めていた葉介が、妥当な意見を述べた。
「丈さん、今日はもう帰れば?。」
「野郎!!。」
「だ、だってなんか具合悪そうじゃないスか。」
 それに懐具合も、と、一言付け加えた葉介に、丈は立ち上がって手を伸ばしてはその首を抱え込んだ。有り余る鬱憤(うっぷん)を晴らすには今はこんな手段しかない。とりあえず葉介の首を締め上げた。
「ぐぐぐ。」
「ハイもうそのくらいで。」
 斉藤がカウンターに新しいボトルを置くのを見て、丈は葉介を解放した。葉介は紫に腫れ上がった顔をして、首筋を押さえては咳き込んだ。
「ひ、ひどいっス丈さん。今の冗談とは思えない・・。」
「何か、帰りたくない理由でもあるんですか?。」
「別に。」
 別に理由というほどの事は無い。今日は今までと違って、帰ってもメシが無いだけだ。
 戒爾は「先に戻る」と言った。だけどおそらくヤツは消えた。丈はそう思う。前に調査室から姿を消したあの時のように。
「面倒がひとつ無くなっただけ。」
 斉藤は黙ってグラスに新しい氷を落とすと、自ら封を切ったばかりのアーリータイムズを注いだ。丈も無言でそれを手に取り、一口呷(あお)った。しかし待ちわびた本物のロックも、別段美味いとは感じなかった。安い酒だからだろうか。


「ただいまあ。」
 酔ったままふらふらと自宅アパートに辿り着き、誰もいないと分かっていてもつい声を出してしまった。数日同居人がいただけで妙な癖がついたらしい。おまけに灯りまでつけっぱなしだ。
 玄関で寝込みそうになりながらも、丈はなんとか靴を脱いだ。上がり込もうとしてふと、目前に立ちふさがる人影に気付いた。
「!。」
 丈は声も無く、今自分が後ろ手に閉めたばかりの玄関のドアに貼り付いた。そこに仁王立ちしていたのは、紛れもなく戒爾だった。
「遅い!!。」
 戒爾は、怒っていた。しかも今や見慣れたエプロン姿で。税理士まがいの真面目顔に白のフリルはさすがに気色が悪いと思う。しかし青のチェックならいいのかとかそんな不毛な言い合いになるのは分かっているから何も言わないまま今に至る。それでも毎日その日の初見の度にぞっとする。酔っている今日でもやっぱりぞっとした。
「食事は?」
「す、済ませてきました。」
 白いフリルの税理士は片手を腰に当てて、もう一方の手はオタマを持ち、そのオタマで自分の首の後ろを叩き始めた。これは威嚇なのだろうか。
「僕は先に戻ると言いましたよね。」
「ハイ。」
「だったら食事の準備ができてることぐらい想像つきますよね。」
「ハイ。あの。」
「何ですか。」
「スイマセンでした。」
全くもう、とかブツブツつぶやきながら、白い税理士は部屋の奥へ消えた。どうやら部屋に上がることを許可されたらしい丈が息を殺しながら静かに後ろに付いた。果たしてどちらが居候だったかという問題は今は誰にも思い出されていない。
 丈が居間に腰を下ろしたあと、台所では、準備されていた食事が殊更に大きな音で撤収されていた。食器が片づけられる音の合間に、「まったく僕は命がけでバイクに乗らされて電車賃まで節約してるのにあなたはそうやって無駄な飲食を云々・・」というボヤキが、独り言とは思えぬ声の大きさでひとしきり語られた。台所が落ち着くまで、丈は黙って煙草をふかし続けた。
「お茶、煎れましょうか。」
「あ〜、水。」
 返事は無い。
「水を、お願いします。」
「分かりました。」
「・・・。」
 丈にしてみればとんだ不意打ちだった。確かに戒爾は「先に戻る」と言った。しかしあの状況で、つまり追うとか追われるとか殺すとか殺されるとかそういうややこしさを抱えた中で、庶民の生活に立ち戻るだろうか。イヤそういえば戒爾はそれを以前から抱えてたわけだが、見られちまったからには、普通、何か説明があるのではないだろうか。まあこんな状況の「普通」があるわけもない。元々何が何だか分からないウチにまた一段階ややこしくなってしまった。
「もう二日酔いですか。」
 頭を抱えた丈に、戒爾が水の入ったカップを渡した。居間の大きめのソファに座りカップを受け取ると、丈はだらしなく天井を仰いだ。その隣に、戒爾は当然のように腰掛けては一人で熱いお茶をすすった。
「あのさあ。」
「はい?。」
「あの女、誰?。」
「どの。」
「調査室の駐車場にいたろ。お前の女?。」
「まさか。そんないい雰囲気に見えました?。」
「全然。」
「でしょう。」
 戒爾がズズっと茶をすする音が、狭い部屋に響いた。
 聞かなければと、丈は思っていた。しかし要点をはぐらかしているのは戒爾であり、丈自身でもあった。知れば何かを壊す事になる。新宿の逃走劇の後、兄貴から連絡がないのもおそらくはその為だ。兄貴は何かを隠している。兄貴を突いても戒爾を突いても、おそらく同じモノが引きずり出されるのだろう。それを、自分は恐れている。
 俺は酔っぱらった頭の方が物事がちゃんと見えるんだなあ、と、丈は妙な事に関心してみたりする。
「あの女とナニしてたの?。」
「お話とか。」
「それだけ?。」
「あと格闘を少々。」
「普通するか?。」
「しませんよね。」
 再度戒爾がズズっと茶をすすった。
「お前の技アレ何、太極拳だと思ったけどそれだけじゃねえな。」
「陳式太極拳と八極拳と合気道その他を僕向きにアレンジしまして。」
 話題の矛先を自ら変えてしまった事に丈は気付いていた。なのに、もういいやという気分になった。とりあえず今日のところは。今までもそんな風にしてやり過ごしてきてしまったわけだったが。
「俺にも教えとけよ。」
「本気で言ってます?。」
「おう。何か使えそうだし。」
「あなたには無理でしょうね。」
「んだと!。」
 戒爾は突然湯飲みをテーブルに置くと、鋭い視線で丈に手を伸ばした。突然の先手に引き気味になる丈を押さえつけては、感触を測るかのように丈の肩や胸をまさぐり始めた。
「あん。」
 ふざけてみたつもりだが戒爾は答えない。無言で男に触られまくる具合の悪さに、もう一度言った。
「ああん。」
「黙っててもらえます?。」
「・・。」
 上半身をひとしきり触られまくった後に、丈はおずおずと聞いてみた。
「あのう一体。」
「いいですか、ここが・・」
 丈の胸やら肩口やらの筋肉を押さえては、戒爾が話した。
「ここが肩甲挙筋、ここが肩甲下筋、ここが烏口腕筋、ここが・・」
「で、それが。」
「機械運動じゃ鍛え難い筋肉です。方法が無いわけではないですけど。生来のものと、あとは実戦で鍛えられる部分です。」
「だからそれが。」
「素晴らしいです。」
「は?。」
「貴方、ロクな訓練した事ないでしょう?。」
「悪いかよ。」
「なのに喧嘩で負けたことないでしょう。少なくともフェアな一対一では。」
 かなりの確率で負けてんぞと思ったが、考えてみればタイマンで負けた記憶をたどるならガキの頃まで遡る。それはあのクソ兄貴に勝てなかったからで、言われてみれば確かに兄貴以外に負けた事は無い。今でもタマに負けるのは、相手が十人がかりだったり銃持ってたりするせいだ。ちなみに兄貴にだけは今でも勝てる気がしない。何故ならヤツは国士舘のアマレス出身ですぐに関節を固めようとする。その後は寝技で押さえ込まれる。あんなのに寝技で密着される可能性を思うと戦う前から謝りたくなる。それはともかくだった。
「・・そうかも。あんましタイマンじゃ負けねえな。」
 丈の言葉に戒爾は微笑んだ。何故かその顔は寂しそうに見えた。
「道を歩いていたら知らない男が殴りかかってきました。あなたならどうします?。」
「殴り返す。」
「でしょうねあなたなら。僕ならどうすると思います?、僕は殴りかかってきた相手の重心をまず見抜きます。そしてそれに揺らぎをかける。例えば次に踏み出される足先を軽く踏むとか。それから相手の体が揺らいで傾いた方向に引きをかけます。相手の力それ自体を自分の攻撃力に転じるんです。例えば・・、ええとこの話は永遠と続けられますが要点は分かりますか?。」
「イエ。」
「つまりあなたの戦法なら先に一発殴られてる事になる。同じ戦法を僕が取ったらどうなると思います?。」
「分かりません。」
「殴られた時点で気絶して倒れてます。」
「・・。」
「納得しました?、僕が相手の動きを読んで行動し、重力や慣性といった自然法則まで利用するのはそれが僕の死活問題だからです。強いあなたには必要ありません。必要ないものはきっと身に付きません。」
「はあ。」
 素直な丈に、戒爾がもう一度微笑んだ。
「僕は、強くなりたかったんです。いろいろと稽古もしました。だけどどうしてもある程度以上は使える筋肉がつかなくて。ボディビルみたいな見せる筋肉なら違う方法もあるでしょうがそれじゃ無意味。自分が使える技を選んでいったら、今の僕みたいな戦法になったんですけど。本当はあなたのように強くなりたかった。」
「ええと。」
「僕はあなたがうらやましいです。」
 言われ慣れない言葉に、丈は鼻の脇を掻いてみたりした。なんというのか、ムズ痒(かゆ)かった。
 うらやましいです、と繰り返して、戒爾はテーブルの上の湯飲みを取り戻した。
 それからまた、戒爾がズズっと茶を啜る音が静かな室内に響いた。

〜「序章3 吾一&秀蔵」へ〜


Return to Local Top
Return to Top