A Stray 〜 保険調査員3(過去編)


 序章 


 つくば市、吠登製薬研究所、新薬研究棟。
 陽射しの当たらない細長い廊下を、よれた白衣を身にまとった男が猫背気味に歩いていた。
 仁井健一。
 咥え煙草にスリッパ履きというその風体からは想像も付かないが、生命物理化学で助教授の肩書きを持つ。若干三十二歳の年齢からすれば異例の出世と言える。そして彼は、研究所の敷地のほぼ三分の二を占める『新薬研究部』で実質上総指揮をとっていた。

「お疲れさまです。」
 カルテを片手に廊下に立つ若い助手に声をかけられ、仁井は答える代わりに軽く手を上げてみせた。まだ糊のきいたゴワゴワした白衣の助手は普通に考えれば大学院生だろうか、しかし童顔のせいで高校生のバイトにしか見えない。
「どう、被験体の様子は。」
「それが・・」
 童顔の助手は気まずそうに手元のカルテを繰った。
「健康面ではいまのところ問題はありません。しかし、被験体は我々とのコミュニケーションを拒んだままで・・。」
 解説が長引きそうな気配に、仁井はカルテごと助手を押しのけた。
「いいよ。直接見に行く。現在のカリキュラムは?。」
「ええと、三ーB棟で日常的教養の習得です。」
「すぐそこじゃないか。」
 言い終わる前に歩き出した仁井を追って、助手が後に続いた。

 三ブロックほど先、施設突き当りの廊下の前で、仁井は部屋側に振り向いた。
 一面ガラス貼りの廊下の壁からは六畳ほどの狭いスペースが見渡せる。室内には少年と白衣の男。一見すれば中高生が補習授業に残されたかのように見えなくもない。しかし少年の両手にかけられた手錠が、ただの補習ではない事を示している。
「彼は我々には話しません。」
 助手が言い分けするように解説した。
「言語の理解度が低いんじゃない?。」
「はあ、しかし食事を運んだ雑務担当は彼と普通の会話をしたと報告しています。」
「ふうん・・。」
「それに、会話の内容に不審な点が多すぎます。」
 助手の話を聞くともなく、仁井は両手を後ろで組んだままガラスに顔を寄せた。強化ガラスには一面にスモークフィルムが貼りめぐらされている。室内には防音処理も施されており、内部からは外部の様子を窺い知る事はできない。警察の取調室にありがちな仕組みだ。なのに少年は、怪訝そうに廊下の仁井へと振り向いた。

「雑務の報告によると、被験体は『前に遊園地で遊んだ』そうです。」
「あり得んな。彼はこの病棟から出たことは無い。」
「しかし・・。観覧車やジェットコースター等、会話の描写は一般的です。我々が与えている教材を見直しましたが、そういった施設に関する情報は見当たりません。」

 室内では、何も話さない少年に腹を立てて、教師役の白衣の男が少年を平手で叩いた。少年は紅くなった頬に手を当てることもなく、ただ怒りに満ちた視線で男を見上げた。

「『遊園地』の細部を聞き出してどこの遊園地か特定して。思い当たる節がない事もない。」
「はあ・・、しかし被験体は我々に口をきかないわけで・・。」
 曖昧な返事の助手に、仁井は、使えないなあ、と小さく言った。

 室内では、教師役が今度は少年の反対側の頬を叩いた。反動で椅子から転がり落ちるかと思えた上体を危うくこらえた少年に、教師役が何かを叫んだ。廊下からその言葉は聞き取れない。インターホンを取れば室内の音は手に取るように分かるが、その必要を感じないままに仁井は情景を眺めた。
 少年の反抗的な態度にしびれを切らしたのか、教師役は遂には少年を拳で殴りつけた。少年は腰掛けていたパイプ椅子ごと真横に倒れこんだ。本来なら手を付いて身体を庇いながら倒れるところだが、両手の手錠がそれを妨げた。リノリウムの床に頭から突っ込んだまま、少年は動かなくなった。
 身動きしない少年にさすがに不安を感じたのだろうか、教師役が横たわる少年に近寄り様子を窺った。その時、少年の足先が幽かに動いたことに、教師役は気付かなかった。
「やられちゃうなあ。」
「はい?。」
 仁井の呟きに気をとられて、助手は一瞬室内から目をそらした。だから、少年の蹴り上げた爪先が教師役のこめかみを叩く瞬間を見逃した。声もなく倒れた教師役自身すら何が起こったか把握できていたかは不明だ。高く上げたその足先が地に付くと同時に、少年は廊下側の壁へと跳躍した。助手が室内に視線を戻したとき、少年は彼の目前にいた。
「ひっ!。」
 気味の悪さに助手は思わず後退りした。強化ガラスのスモークフィル越しにこちらが見えるはずはない。しかし、少年は真っ直ぐに仁井を見据え、手錠がかけられたままの両拳を仁井の顔面めがけて叩き付けた。
 ボン、と鈍い音がして、強化ガラスが幽かにたわんだ。
 薄いガラス一枚を挟んで、仁井と少年の視線が交錯した。殺意さえ含んだ少年の視線を、仁井はいつもの薄笑いのまま受け止めた。仁井は咥えた煙草を右手に移すと、少年の顔に吹きかけるかのように、ゆっくりと大きく紫煙を吐いた。少年はまるで顔に煙を吹きつけられたかのように、瞬間眉をひそめた。
「何故キミじゃなくボクを狙ったんだろうね。」
 目の前の少年を無視するように、仁井は背後の助手に話した。それは独り言かもしれなかった。
「まるで、プロジェクトが誰の意図で動いてるか知ってるみたいじゃないか。」
「そ、それより、彼はこちらが見えているんでしょうか?!。」
 仁井は助手へ振り返り、ガラス越しの少年に背を向けた。
「ここの強化ガラスの仕様は?」
 突然の質問にうろたえながらも、助手は手元の資料を繰った。
「え・・と、板厚二十一ミリ、重量四十五キロ平方の防弾ガラスです。」
「板厚八十一、重量百九十に変えたまえ。すぐにだ。」
「し、しかし、現在の仕様は既にハンドガンレベルの防弾すら可能で・・」
「ボクに説明はいい。ハンドガンレベルをライフル仕様に変えてって言ってるの。正確にはライフル徹甲弾用。頼んだよ。」
 用件だけ言いつけると仁井は彼の前を素通りして、今来た廊下を戻り始めた。もはや助手の姿は眼中にない。想いは既に別件にとんでいるのかもしれない。
「あ、あの!。」
 納得のいかない助手が、よれた白衣の後姿を呼び止めた。
「教授は、彼が・・被験体が、ライフル徹甲弾クラスの破壊力を持つと?・・」
 うんざりした顔で仁井が振り返った。
「白痴かキミは。見ただろう、ボクたちの目の前でキミの言うハンドガンレベルの防弾が破壊される寸前だったんだ。それで被験体にはまだ充分に体力の余裕がある。防御レベルを上げるしかないだろう?。それがライフル徹甲弾クラスかどうかなんて事は後からついてくる。ボクが板厚八十一、重量百九十を指定したのはそれが発注可能な最高クラスだからだ。それでも危険なら業者に特注だ。時間がかかる。その場合、監視方法自体を変るべきだ。その位はキミ達で判断したまえ。」
「し、しかし・・有り得ません・・。」
「何が。」
「ライフル徹甲弾クラスの破壊力を持つなどと・・」
「クドイなあ、徹甲弾クラスという確証なんて無いんだよ。ロケット弾か核弾頭か判らないと言ってるだろう?」
「そんな・・人間として、あり得ません!。」
 仁井は溜息をついた。
「キミにはうんざりだよ。『人間』だという保障がどこにある。」
「人間ではない・・と・・」
 付き合いきれん。そんな表情で仁井は助手に背を向けると歩き出した。
「教授!、人間でなければ、一体何なんですか!。」
 もはや仁井は振り返らなかった。猫背気味に背を丸めたまま、肩越しに手を振った。
「考えたまえ。それが分かればボクも助かる。」

 助手の視界の先、仁井の後姿は徐々に遠くなり、数ブロック先の角で曲がっては消えた。
 それから、ひとり取り残されたのだと、童顔の助手はようやく思いついた。恐る恐る室内を振り返る。仁井の後姿を見据えていた少年の視線は、今や対象を失って今度は助手へと向けられた。
(見えるはずがない。)
 助手は心で自分に言い聞かせた。スモークシールドの向こうを見渡せるはずがない。人間ならば。
 しかしどう言い聞かせようが、今、確実に少年は自分に視線を合わせていた。
 化け物。
 その単語が助手の頭に浮かんでは消えた。
 確かに、人間ではあり得なかった。
「ば、化け物!。」

 声に出して叫ぶと押し込めていた恐怖が爆発した。少年から目をそらせないまま数歩後退った後、童顔の助手は突然身をひるがえして全力で駆けた。化け物、と、心の中で繰り返し叫びながら。
〜本編へ〜


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