Inheritor 〜 保険調査員2



 序章 1    〜 秀蔵 and 吾一 〜


「なあ、キャンプって、道具とかいるんだろ。」
 真紅のマセラティ 3200GT アセットコルサ。ロングノーズ・ショートデッキの流麗なクーペフォルムが国道299号線をひたすら西へと走っていた。
 一杯に開いた後部座席の窓に顎をのせて、吾一が尋ねた。冷たい夕暮れの風が吾一の長めの前髪を揺らした。
 ハンドルを握る秀蔵は何も答えない。吾一がひとりで続けた。
「テントとか、寝袋とか、さ。いろいろ。」

 あの日。西武遊園地で吾一が意識を失った日から三日経っていた。戒爾の見解では発作までの周期はほぼ一週間のはずだった。
「なきゃダメなのか。」
 吾一に返しながら、秀蔵はフロントのミラーで吾一の様子を覗(うかが)った。
「ダメじゃないけど・・。」
 吾一は窓の外の流れる景色に心を奪われながらも、身体を細かく前後に揺らし続けていた。あれは、予兆だと、秀蔵にはそう思えた。
 秀蔵は夕方の調査室での彼を思い出していた。吾一はメダカに餌付けをしていた。いつも餌を入れすぎては水槽を汚す。注意するつもりで吾一の脇に立った。その時に異変に気付いた。吾一は、既に空になった餌の袋に手を入れては水槽の上に手をかざすという反復動作を繰り返していた。手に触れる餌が無いのにも関わらず、だ。
 単純な反復動作は覚醒剤の禁断症状を連想させた。
 喜べキャンプに行くぞ、と突然宣言して、吾一を連れ出した。
 人気の少ないところへ行かなければならないと、そう思った。しかし一体何処なら安全だと言えるだろう。まずは都心を離れる事だと、その程度の判断で青梅街道を西へと走った。そのまま奥多摩に辿り着いてはハイカー客が多すぎる。途中で北に上り飯能方面へと進路を変えた。
 山間部に近づくにつれ、ワインディングが徐々にきつくなった。ポルシェとも比較されるレース仕様のアセットコルサはむしろ高速コーナーに適している。峠道で小回りを効かせた走りをするようにはできていない。シフトチェンジの繰り返しで、秀蔵の腕の筋肉は既に攣(つ)りそうに張っていた。

 一体何処まで行く気だと自分に問いかけつつ車を駆った。
 パーーン、と警笛を無駄に鳴り響かせて、一台の二トン車が幅を寄せてきた。フロントのミラーで車体を確認する。陽が落ちかけた峠道はほど暗く、ボデーに書かれた文字を読み取れないが、車の外見から、運送業者だという判断はついた。一日に何度も同じ道を往復する中距離の運送屋は、時々退屈して目に付いた車に仕掛けては事故を誘発する。
(馬鹿野郎!)
 先に行かせてやり過ごす代わりに、秀蔵は思い切りアクセルを踏んだ。370馬力のツインターボエンジンが快適に唸りを上げる。
「うわ!。」
 急な加速でシートに引き戻された吾一が声を上げた。
 目前にコーナーが差し迫っていた。曲がり切れずに岩肌に追突すれば運送屋の思う壺だ。シフトダウンしながら視線を斜め前方に投げて、コーナーの最深部を見極める。細かくブレーキワークを効かせたが、幾分減速が間に合わないかと思う。
(クソ!)
 危険を承知でブレーキを踏み込んだ。案の定後輪がロックした。わずかなスリップを感知した車両安定装置のボッシュ5.3ASRコントローラーが駆動輪への抑止力を上乗せする。丁度コーナーの最深部。トラクションの回復を反射的に体感で確認すると、秀蔵は再度アクセルを強く踏み込んだ。
 直線へと抜け切ったマセラティに続いて、運送屋がコーナーを抜けた。その車体はバックミラーに小さく、既に遥か後方だった。ドライビングの技術云々というより車の性能に助けられた。
 その後秀蔵はマセラティを法規定速度で流したにもかかわらず、運送屋は車間を取り、二度と追いつこうとはしなかった。

 行き先も決めぬまま無駄な走りを続けると、前方にトンネルが出現した。抜ければ秩父。いい加減にしなければと思う。ここから北に進路を取れば刈場坂。南は正丸、走り屋のメッカだ。バイク小僧に囲まれる面倒を思い、進路を北に決めた。路面の凍結が多少気がかりだが、行くと決めたら行く。

  ◇◇◇ 

 秀蔵は刈場坂頂上の駐車場に車を停めた。車内灯を消すと、目前に関東平野北中部の夜景がパノラマ状に広がった。もう少し暖かい時期ならアベックが押し寄せるのかもしれない。車一台見当たらないのは幸運と言えた。
「おい、見ろよ。綺麗なもんじゃねえか?」
 後部座席の吾一に話しかけた。ミラーで吾一の姿を確認する。吾一の全身が細かく震えていた。それは覚醒が近い事を意味していた。気付かないふりをしてマルボロに火を点けた。
「なあ。クスリ、打って。」
 吾一が小さな声でそう言った。自分の異変に、吾一自身が気付いていた。
「戒ちゃん置いてったはずだ。秀蔵持ってんだろ。」
 秀蔵は黙って紫煙を吐いた。吾一の言うとおりだった。戒爾は去り際、秀蔵にアンプルを預けた。それは今ダッシュボードの中にある。しかし使う気はない。俺の目が黒い間は使わせないと、秀蔵は心に決めていた。
 不安がないわけではない。気が立っているのも事実だ。だから無謀なカーチェイスに応じたりもした。
 早くしないと!と叫ぶ吾一に、一言、断る、と告げた。
「え?」
「俺は注射が嫌いだ。」
「されんのは俺だろ!」
「されんのも嫌だがするのも嫌だな。大体やったことなんかない。できねえと思うぞ。俺は。」
「な・・!。じゃあ戒ちゃん呼んでくれよ!今すぐ!俺ヤバイんだ。知ってんだろ!。」
 後部座席から運転席と助手席の間に身を乗り出して、吾一が秀蔵の腕を掴んだ。
 秀蔵は自由な方の手で、火がついたばかりの煙草を灰皿で揉消して捨てた。振り返ると、吾一の髪にその手を差し入れた。吾一の髪を軽く握って引き、彼の顔を上向かせると、睨みの効いた目で尋ねた。
「クスリが好きか?」
 秀蔵に顔を寄せられたまま、吾一の目が大きく見開かれた。何かを言おうとしたその唇が震えた。泣かないようにこらえているのだと分かった。
「好きなわけないだろ!」
 叫んだ吾一の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「なら必要ない。」
「オレ・・。秀蔵殺しちまってからじゃ遅いんだ!。」
 秀蔵は吾一の頭から手を離した。吾一は涙をしゃくり上げながらも大きな瞳で秀蔵を見つめていた。
「ナメんなよ。俺はお前にヤられるほど抜けてねえ。」
 吾一はふと頭を落とすと両手で胸を押さえた。
 吾一の呼吸が早まり、両肩が激しく上下した。
「なぜ俺を呼んだ?拘束してもらう為か?」
 蹲(うずくま)ったまま、吾一がは頭を振った。違う、と、声も無く叫んでいた。
 吾一の全身が激しく痙攣を始めた。もうすぐ彼には誰の声も届かなくなる。知りつつも秀蔵は話し続けた。
「忘れたくないと言ったな。なら、のみ込まれるな。お前をのみ込もうとするその力と自分で闘え。俺は、お前を助けられない。」
 ぐうっ、と、吾一が獣のように呻いた。もはや限界だった。
 秀蔵は運転席から外に降り立った。後部座席のドアを開けると、蹲ったままの吾一を引きずり出した。吾一は胸を押さえたまま駐車場の路面に転がった。
 癲(てん)癇(かん)患者のように吾一の全身が大きく痙攣した。伏せた彼の表情は見えなかった。
「がっ!」
 何かを吐き出すように呻いた後に、吾一の痙攣は引いた。しかし静かに、死体のように同じ姿勢で横たまったたままだった。
 覚醒は終わったのだろう。
 秀蔵は足元の吾一を見下ろした。
「フェイントのつもりか?来いよ吾一。」
 反応のない吾一に向けて続けた。
「助けられない代わりに遊んでやる。」

 横向きに倒れたままの吾一の上側の足が、何の前触れも無く秀蔵を捉えて真っ直ぐに伸びた。秀蔵が飛びのくのと同時に、蹴りの勢いを反動にして、吾一は跳ねるように立ち上がると、同じ足でもう一度、上段へと蹴り上げた。吾一の靴先が僅かに秀蔵の頬を掠めた。
 吾一は蹴り上げた足をゆっくりと戻しながら、重心は片足のままで不敵に口の端で笑った。その動作は、(どう?片足でもこんなもん)と、秀蔵を嘲笑っていた。あの日に見た、凍った瞳の吾一だった。
 今、彼の靴先が掠めただけで秀蔵の頬は横一線に切り裂かれた。滲み始めた赤いものが一筋、涙のように秀蔵の頬を流れ落ちた。
「上等だ。頭の使い方も覚えたか?」
 秀蔵が言い終わる前に、同じ足の回し蹴りが秀蔵の腰を捉えた。秀蔵は故意に遅れたタイミングで身を沈めた。吾一の蹴りをしゃがんだ肩口で止め、その足を素手で捕らえた。蹴りの反動で転がりながら、吾一をも足から引きずり倒した。地に落とされた吾一の不意を付いて彼の足を捻(ひね)りながら、首筋を後ろからコンクリートに押し付けた。
 ぐぐっ、と吾一のくぐもった声が響いた。
 秀蔵はうつ伏せになった吾一に跨(またが)るように乗りかかり、彼の両腕を背中で固めた。
 あらわになった吾一の首筋に、念を込めた気の一発を送り込んでやればキまる。しかし秀蔵はそうしなかった。吾一の両腕を取ったまま、背後から吾一の耳元で囁いた。
「聞こえるか、吾一。」
 問いかけに吾一は怒りを込めた唸り声で返した。しかし秀蔵が呼んだのは、獣じみた今の吾一の中に眠るはずの、もうひとりの彼だった。
「『それ』はお前の力だ。無理矢理引き出されたものかもしれんが、誰のものでもない。お前の力だ。使いたいなら使えばいい。我慢する必要なんざ無い。」
 背中の秀蔵を払い落とすべく、吾一の肩が怪物じみた力で暴れた。秀蔵はもう一度吾一の両腕を後ろ手に締め直してから続けた。
「但し、のみ込まれるな。力に使われてんじゃねえ。お前の意思で使え。聞こえるか、吾一。」

 吾一は瞬発的に頭を反らすと、秀蔵への頭突きを狙った。それをかわした一瞬、腕の固めが甘くなった。隙を付いて寝転んだまま吾一は身を反転させた。振り落とされた秀蔵の顔面へ吾一の拳が一閃した。
 衝撃で瞬間、秀蔵は気が遠くなった。今倒れたら吾一を止める者がいない。その想いが秀蔵の意識を引き止めた。
 頬を押さえて立ち膝になった秀蔵の目前に、吾一がゆっくりと歩み寄り、歩を止めた。
 落とした視線の先に吾一の靴先を捉えて、秀蔵は瞳を上げた。白い月を背景に、吾一の冷めた瞳が秀蔵を嘲るように見下ろしていた。
「まあ、すぐには分からんだろうが。」
 独り言のように呟(つぶや)くと、秀蔵は吾一を見据えたまま立ち上がった。吾一に殴られた頬の内側が切れたらしく、咥内に違和感があった。口の中に溜まった血を路面に吐き捨てた。
「遊びはこの程度だ。次は決める。」
 宣言すると、秀蔵は片手を自分の目の位置に上げた。吾一に見せつけながらゆっくりと気を溜める。秀蔵の内側で膨らむ戦闘力を、吾一は肌で感じ取った。
 ククッ、と吾一はくぐもった笑い声を上げた。まるでその時を待ちわびていたかのようだった。
「来いよ、サル。」
 乾いた笑みを張付かせたまま、吾一の片足が地を蹴った。

 夜はまだ更け始めたばかりだった。


 序章 2    〜 丈 and Etc.. 〜


「今度は何やらかしたんすか、丈さん。」
 客席総数二十程度の薄汚れたバーのカウンター、ソバカス顔の少年が、隅の席でしょぼくれていた丈を馴れ馴れしく覘き込んだ。
「葉介、コノ野郎。それは斉藤の台詞だっつーの。」
 カウンターの内側、ボトルを磨いていた手を止めて、雇われ店長の斉藤が苦笑した。
「確かにいつもの俺の台詞だけど。俺も聞きたいな。今度は何やらかしたのか。」
「お前らなあ・・。」
 溜息まじりに丈はグラスを揺らした。氷がグラスに触れて心地よい高音を響かせる。ボトルの酒を切らさないように、つい氷の量を増やす癖がついてきた。ロックというよりは量の少ない水割りだ。やりきれないのにもかかわらず酔えもしない。
「騙された。」
 興味しんしん、というように目を輝かせて、葉介が促した。
「誰に?」
「キレイな顔の真面目そうなおにーちゃん。」
「どんなふうに騙されたんスか。」
「取引のカネがさあ。」
 自分が情けなくなり、丈は一旦言葉を切った。
「ほとんど新聞紙だった。」
 ブッ、と斉藤が吹き出した。尊敬するアニキの手前、葉介はさりげなく視線を泳がせたが、斉藤につられてついには声をたてた。
(他人事だと思いやがって。)
 机を叩いて笑い始めた葉介を殴るのも面倒で、丈はそっぽを向くと薄い酒を呷った。全く、笑われても仕方がない間抜けぶりだと自分でも思う。
 三日前、あの取引の時、待ち合わせ場所を指定したのは戒爾だった。ヤツはバレるとふんでいた。今思えばそうだ。だから敢えて人混みを選んだ。クスリを身に付けたまま派手な殴り合いもできない。警察を呼ばれたら現行犯だ。隙を見てブツを奪ったら人波に呑まれればいい。
(なのに俺ときたら・・。)
 兄貴と美人の調査員から戒爾を逃がした。その上に、だ。夜にはヤツの手料理を食った。そして翌日は一緒に埼玉くんだりまで出掛けてサルの気違い沙汰に付き合った。イカサマ調査室に戻ってから戒爾は秀蔵を連れ出した。戻ってきたのは秀蔵だけだった。ヤツはそのまま姿を消した。
 そういえば公園のベンチで、戒爾は「あなた、いい人ですね」と言った。そりゃあいい人だろう。そう思う。まるで俺は神様だ。
 手数料の百二十万を差し引いても売人に払った金は八十万。要求した二百万のうち、新聞紙じゃない現金はきっちり三十万。五十万くれてやった計算になる。頭痛がした。以前の歌舞伎町の負けを取り戻すどころか傷を広げた。細かいシノギの積み重ねではもはや取り戻せそうもない。
「なあ、斉藤。」
 横で笑い続ける葉介は無視した。
「お前、高校卒業したんだろ。専門学校行ってんだっけ?」
「行ったり行かなかったり。」
「ゲームが趣味って言ってたよな。それって、カネになる?」
 上目遣いに斉藤の表情をうかがいながら、丈は意味ありげに笑いかけた。グラスを片付けていた斉藤の手がふと止まった。
「ならなくもないけど。命懸けだから。」
 にこやかに斉藤が笑った。冗談とも本気ともつかない。戒爾の野郎をふと思い出した。
「ゲームに命懸けか?全くわかんねーなお前らの世代は。」
 オヤジくさいすよ丈さん、と横ヤリを入れてきた葉介をとりあえず蹴った。大袈裟に悲鳴を上げる葉介に、斉藤が笑った。セットの氷を新しいものに代えて丈に差し出しながら、斉藤は冗談のように話した。
「俺タチの世代って、命懸けじゃないと生きてるのかどうか分かんなくなるから。」
「・・そりゃ厄介だね。」
「丈さん、俺は生きてるッスよ確実に。」
「聞いてねえ。」
 斉藤は何かしらヤバイ仕事に手を出している。丈はそうふんでいた。ヤバイ仕事なら金になる。一口のせてもらわない手はない。しかし『命懸け』というフレーズは気にかかった。命が惜しいというよりは、間抜けの連続で命懸けの仕事をせざるを得なくなるという展開に我慢がならない。命懸けは男のプライドを取り戻した後だ。
 それに丈は最近強烈に生を実感していた。美人に撃たれたりサルに殺されかけたおかげとも言える。真面目くんには拉致された。
(望んじゃいねーのに、そういえば俺はここんところ命懸けの連続だ。)
 丈は薄い酒をあおった。

「でもさー、丈さんが騙されたまんまってのもおかしくないスか?」
 懲りない葉介が言った。
「あ?」
「ボコボコにしても取り戻すっしょ。」
「・・居場所が分かればな。」
「えっ、分かんないの?!。そんなヤツと取引したんスか?」
「あの野郎、携帯すら持ってなか・・」
 思い出した。そうだった。確かに戒爾は携帯電話すら持っていなかった。だから外から金額の交渉をするために、戒爾に自分の仕事用の携帯を渡した。
「俺の電話貸して返してもらってねえ!。」
「ええ〜。」
「って事は俺の携帯に電話すればいいって事か!。」
「・・なんかものすごく馬鹿バカしい・・。」
「つべこべ言うな!、オイ葉介、俺に電話しろ!。今すぐ!」
「丈さん俺に番号教えてくれてないス。俺聞いたのにうるさいとか言って。」
「じゃ斉藤!」
 話を聞いていたらしい斉藤は、既にダイヤルを済ませていた。発信音が幽かに響く携帯を黙って丈に手渡した。
 受け取った携帯電話に耳を寄せながら、丈は不安に駆られた。果たして戒爾が出るだろうか。確信犯なら被害者の呼びかけに応えるはずもない。
 丈の心配をよそに、発信音一〇回で、丈の耳に、あ〜どうも、と間抜けた声が響いた。
「戒爾か?!野郎!。今どこだ!。・・代々木公園?!夜中だぞ!。何?おいコラ待て、切るな!」
 あっという間に切れた。呆然と携帯を握り締めるうちに怒りが再燃した。リダイヤルすると、『現在電波の届かない場所にいるか電源が入っていません』というお決まりのメッセージが流れた。
「あんの野郎!。」
「何だって?」
「『僕の事は忘れて下さい』とかぬかしやがった。」
「ナメられてるっスよ丈さん。絶対。」
 葉介に言われるまでもなかった。携帯を斉藤に返すと止まり木から立ち上がった。
「つけといて。必ず返す。必ず!。」
 丈は大股でバーのエントランスをくぐると、階段を一段抜きで駆け上がった。ヤツを必ず見つけ出して捕まえると心に誓った。

  ◇◇◇ 

「いっつもバタバタ先に消えるんだよなあ、丈さん。」
 カウンターに独り残された葉介が愚痴った。飲みかけのジンバックに今気づいたかのように、背の高いグラスを手にしてつまらなそうに口に運ぶ。斉藤が微笑んで話しかけた。
「ね、丈さん、カネを回収できると思う?」
「そりゃするっしょ。丈さんやるときはやるって。」
 どうかなあ、と斉藤は思案してみる。取引の相手は丈の電話に一度は出た。詐欺が目的なら携帯はすぐに処分したはずだ。何か分けありの客に違いない。そういう相手に、きっと丈は弱い。
「葉介、賭けようか。俺、回収できない方に三千円。」
「うっそ。俺は丈さんを信じる。回収する方に三千五百円。」
「その五百円は何?」
「アニキへの信頼スよもちろん。」

  ◇◇◇ 

 いろんな方面の信頼を得ているとも知らず、丈は戒爾への猛烈な怒りを胸に山手線でひとり揺られていた。


 序章 3    〜 戒爾 and 丈 〜


 夜の日比谷公園。
 屋外デートには少々肌寒いこの時期、公園で夜を明かすのは浮浪者かリストラにあったサラリーマンくらいだ。後者は浮浪者予備軍でもあるからして、大体が浮浪者とも言える。
 公園のベンチに座って二日。そろそろ自分もそういう人種に近い外見になってきたかもしれないと、戒爾は思う。

 新宿に仁井を呼び出した。自分から呼びつけたにもかかわらず、逃げるように席を立った。仁井の元を離れようとそれだけを思い、行き先も決めずに電車に乗った。知らぬ間に渋谷に向かっていた。まるで丈の部屋に帰ろうとしているかのような自分に気付いた。
 これ以上彼には甘えられない。それに戻る理由もない。思いを断ち切って一つ手前の原宿で下りた。
 あてもなく公園を歩き、ベンチに腰を下ろした。そのまま、今もここに居る。

 もし吾一との逃亡が成功すれば、吾一の体質の矯正に生涯をかけるはずだった。薬の入手ルートさえ確保できれば、田舎に引込むのも良いと思えた。誰にも知られず静かに暮らしていけたら、僅(わず)かな間でも吾一を拘束する側に回った罪を償えるかと思った。
 しかし、吾一は秀蔵を探し当てた。
 それは喜ばしい事と言えた。秀蔵は自分に足りないものを持っている。吾一も彼の元でなら、普通の少年として暮らせる可能性がある。
 伸(の)るか反るかの逃走劇は大円団を迎えたのだ。最高に喜ばしい。
 その事実とは裏腹に、戒爾自身は抜け殻となった。悲しみを抱えているわけではない。なにしろ大円団なのだから。ただ、為すべき事が何もないだけだ。

 仁井の言葉は、今も戒爾の脳裏に染み付いていた。
 同時に秀蔵との約束も胸に秘めていた。
 しかしどちらもが、もはや少し遠い世界の出来事だったように思える。
 自分という存在にはあまり価値がないと、そんな想いだけをうっすらと握り締めていた。

  ◇◇◇ 

 とりあえず原宿駅に降り立った丈は、今更ながら途方にくれていた。
{広すぎる・・。)
 競技場ということはないにしろ、中央公園部分なのか明治神宮側なのか、はたまた裏手の森林公園なのかくらいは聞いておくべきだった。いや、そんな事を聞けるくらいなら渋谷に出て来いと言う。
 ヤツならどこにいるだろうと考えてみた。森林公園で浮浪者と寝食を伴にしているとは思えないし、バードウォッチングが趣味とも思えない。普通に考えれば噴水前か。几帳面に膝を揃えて座っていそうな気がしないでもない。中央広場を目指すと決めた。

 月明かりと多少の照明に照らされた噴水池、少し離れた位置からベンチの人影を探した。北西側の入り口からさほど遠くない木製のベンチに、果たして、彼はいた。
 池側を向いて座る戒爾に、丈は背後から近寄るかたちになった。見覚えのある短髪は寝癖だろうか、妙な形に乱れていて、別れた頃よりヨレているように見えた。なんというのか、彼の情けない風体を目の当たりにすると、怒りで持ち上がったテンションもしぼみがちになった。
 真後ろに立ったが戒爾は気付かない。抜けてやがる。そう思う。
 ジャケットのポケットに両手をつっこんだまま、丈は片膝を高く上げて戒爾の頭を後ろから小突いた。
「コラ。」
「わ!。」
 振り返った戒爾は、思いがけない再会に息をのんだ。
「どうして・・僕のことは忘れて下さいって・・」
「忘れてたまるか!金返せ!。」
 戒爾は驚いたように少し目を見開いて丈を見つめた。
 睨み返す丈としばらく見つめあった後、ああ、と声を上げた。
「そうでした。忘れてました。」
「んだと!!。」
「すいません、いやあもう、すっかり忘れてました。」
「・・・。」
 情けなく笑って頭を掻きながら、戒爾はスイマセンと繰り返した。

 丈はがっくりと肩を落とした。何故か殴る気も失せていた。為す術も無く戒爾の隣に腰を下ろした。
 気の抜けた戒爾の後ろ姿を見つけた時からそんな気はしていた。多分戒爾には金がない。金のあるやつが肌寒い夜に用もなく公園のベンチに座っているハズが無い。
 丈は所在無く辺りを見回してみる。公園というだけあって緑の多い敷地だが、所詮は都会の箱庭だ。空はガスで霞みまくって星を散りばめる代わりに地上のネオンを反映する。夜なのに暗くもない。ニセモノの光を受け続ける木々に生あるものの輝きは感じられない。どうせイカサマならあからさまに胡散臭い裏街の方が幾分健康的な気すらする。
「お前さ、いつからここに居んの?」
「丈と別れた翌日からですか。」
「それからずっと?!。」
「ええまあ。することもなかったんで。」
 シケてやがる。そう思うとなんだかがっくりきた。丈はハイライトを取り出して火をつけた。そういえば前にもこんなふうに二人で座っていたと思い出した。あれはサル待ちの遊園地だった。
 今思えば、あの時戒爾は死を覚悟していた。美人の調査員に殺(ヤ)られるのを予感していた。だとしたら今は拾い物の命ということだ。
「あの。」
「何?」
「返さないとダメ?。」
「と・う・ぜ・ん・だ。」
 やっぱり、笑うその声は、さほど困っているようにも感じられなかった。
「あの。」
「何だ!」
「いい仕事知りませんか。」
「知ってたら俺がやってる。」
 そうだった。まさに今俺タチに必要なのは仕事であり、いい仕事を回しそうな金回りのいいヤツだ。紫煙を吐きながら丈は人脈リストを頭の中で繰った。そう、一人飛び切りのがいた。左ハンドルの外車を乗り回す得体の知れない男。
「クソ。イカサマ調査員の名刺とっておくんだった。」
「僕持ってますよ?」
「なんで。」
「丈が公園で僕に渡したでしょう。」
 丈は戒爾が取り出した名刺を奪い取った。ダイヤルしようとして、それが無いのを思い出した。
「俺の携帯!。」
 そいつも奪い取った。火をつけたばかりのハイライトは投げ捨ててダイヤルした。
 発信音十八回。出ないようだと諦めた頃、聞き覚えのある不機嫌な声が耳に届いた。
「・・桃源調査室。」
「よ。久しぶりだなハニー。俺だ。」
 切れた。
 携帯を投げつけたい欲求に駆られたが思いとどまった。何しろ今はカネが無い。彼ほど金回りの良さそうなヤツは他にいない。多少の辛苦は味わってしかるべきだった。リダイヤルした。今度は発信音五回でつながった。
 不機嫌な声は開口一番、、用が無いなら切るぞ、と告げた。
「カリカリすんなよ。サルは元気か。・・そりゃ良かったな。おう、戒爾も一緒だ。ヤツの料理を食わせてやれねーのが残念だ。そ、俺タチは絶好調。調子いいついでにお前の怪しい仕事でも手伝ってやってもいいかなーなんて。」
 意地っ張りだなあ、と隣で戒爾が声を上げた。携帯片手に丈は戒爾を睨(にら)み付けた。
「・・ああ、そう。じゃ。」
 必要ない、の一言で終わりだった。そんな事だろうとは思ったが多少の失望は否めない。

「あの。明日から僕、仕事探しに行きますから。」
「ああ。」
 丈はライターを手のひらで弄(もてあそ)んだ。考えてみれば、あの取引で戒爾が何か得したわけではなかった。
「でも、良かったです。」
「何が。」
「丈が来てくれたおかげで、することができました。」
 戒爾の隣に腰掛けてから始めて、丈は彼に視線を向けた。ありがとうございます、と微笑んだ戒爾に、同じような笑顔がかえせないのは多分照れなんだろうと分かっていた。
「借金取りに来ただけだし。」
 わざとそっけない台詞を吐いて、丈は腰を上げた。
 それにニセモノくさい箱庭の自然にはどうも馴染めない。帰ろうと、そう思った。出来次第金持って来いよ、と短く戒爾に告げた。
「ええ。できるだけ急ぎます。すいませんでした。」

「そんじゃ。」
 丈は重い腰を上げると戒爾に背を向けて歩き出した。数歩歩いてハイライトを探した。歩きながらでも火は付けられるのに立ち止まった。一体何に引き止められているのかと思う。そして、立ち止まるなという本能は、何を警告しているのだろう。
 うつむきながら咥えた煙草の先に炎をかざした。なるようにしかならない。そう思う。今までもそうやって過ごしてきたし、これからも多分それ以外あり得ない。振り返って戒爾を呼んだ。
「おい!」
 驚いたように振り向いた戒爾に叫んだ。
「俺の仕事はともかく、お前の仕事ならある。」
「何ですか?」
「俺んちの食事係。」
 どうよ?と、丈は首をかしげて問いかけた。
「住み込みで部屋付だ。バイト代は部屋代。貸してる分の金は別に徴収するぜ。どうだ、ノるか?」
 戒爾がベンチから立ち上がった。
「お願いします。」
 そんじゃ来い、と、丈は顎で戒爾を呼んだ。それから戒爾を待たずに歩き出した。ハイライトをふかしながら、背後から戒爾が走り寄る足音を聞いた。そういえばアイツがどこで何をしてきたのか、未だ聞いていなかったと思い出した。
(まあ、いいか。)
 丈を突き動かす衝動は、いつもそういう細かい現実とは無関係だった。


 序章 4   〜 仁井 and 黄島 〜


 吠登製薬研究所の一室。
 黄島女史は仁井の目前のデスクにこれ見よがしに新聞やら雑誌やらを積み重ねると、腰に手を当てて仁井を睨み付けた。
「どういう事?、日本中のどこにも大量殺傷事件なんて起こってないわ。」
 別に資料を再確認するまでもなくその事実は仁井も承知だった。そうなんだよねえ、と呟(つぶや)くと一人煙草をふかし続けた。
 被験体フィフィティーワンの覚醒から一週間、何か事件が起こらないはずがない。
 内閣調査室が一役買ったなら事件は揉み消される可能性が高い。しかし虐殺が事故にカモフラージュされようが、民間人が巻き込まれればそれなりの騒動になるはずだった。しかし、何も痕跡がない。
 研究所内での抑制剤の投与は最長でも一週間間隔。しかしそれは覚醒前の話だ。一度覚醒すれば、次の覚醒までの間隔は日を追うごとに狭まる。いずれ、手に負えなくなるはずだった。
 手に余った被験体は処分するしかないとなれば、さすがの研究室でも繰り返せる類(たぐい)の実験ではない。だから敢えて負けを認めて被験体を戒爾に引き渡した。裏に内調がついたなら国家が事後処理を担当してくれるということだ。これ以上の実験環境はない。あとは観客として、頻発する殺傷事件を追いながら、内調の隠蔽工作のお手並みを拝見するだけだった。
 それに覚醒を引き戻すためのアンプルの必要量は回数を追う毎に多くなる。いずれ被験体は身体が持たなくなる。遅かれ早かれ、被験体は死ぬしかない。フィフィティーワンを連れ出した戒爾はその事実を知らない。

「きっと、井野は被験体を処分したのよ。」
「まあ、そう考えるのが妥当なんだけど。」
 仁井は黄島の目前に、巻物状の心電図レポートを広げた。用紙に平行に流れる十数本の波形、それを鉛筆の先で辿りながら要所に印を入れる。
「十七日、フィフィティーワンの覚醒ポイント、それから・・。」
 波形に大きな特徴のある部分を追う。それはほぼ三日間隔だった。
「分かるだろ、セブンティーンナインは反応を続けている。彼はおそらくフィフィティーワンに同調してる。」
「だけど、その『同調』は推測でしょう。」
「・・そうだけど。」
 鉛筆を放り投げると、仁井は仰け反る様に頭の後ろで腕を組んだ。同調以外にあり得ないと研究者の勘が告げていた。しかしその辺の機微(きび)は調査官の彼女にはきっと理解できない。
 フィフィティーワンは生きている。
 仁井はそう思う。

(自らの抑止力も含めた力の実態を『仕掛け』というなら。)
 戒爾の言葉が耳の奥に残っていた。
 間に合わせに処方した薬の効果を過信した故の甘えた見解だと思えた。違ったのだろうか。ねえ、と黄島女史に問いかけた。
「『愛』って何だと思う?」
 突然の質問に、女史は怪訝(けげん)そうに仁井をのぞきこんだ。
「一体何?」
「『愛』が抑止力だって言った新米の研究者がいてね。」
 意味が分からないというように女史は呆れ顔で首を振った。名回答を期待していたわけではないから別段気落ちもしない。しかし戒爾の台詞を反芻して分かった事がある。『抑止力』という言葉を敢えて彼が使用したということからして、『何か』が被験体を止めたのだ。彼が『愛』と呼んだ何かが。フィフィティーワンは生きている。
「私から質問するけど。」
 黄島女史が切り出した。
「『新米の研究者』って井野じゃないでしょうね。」
「・・そういう事にはスルドイんだなあ。」
「アナタは!」
 大音量で叫ばれて、仁井は思わず椅子からずり落ちそうになった。
「どういうつもりなの!彼に会って確保もせずにニコニコ話しをして帰って来たの!。」
 別にニコニコはしてなかったと思うが、それを言うとまた怒鳴られそうな気がした。
「確かに、今思えば失策だった。」
 被験体が手に負えなくなった時点で泣きついてくると思った。欲を言えばそうならなくても帰ってこないだろうかと、期待したのも事実だ。
「特務班に正式に依頼する。戒爾を探してくれ。念を押すがこれはプライベートな依頼じゃない。戒爾はプロジェクトについて知りすぎている。内調ですら彼を処分する可能性がある。それならそれで結果を確認してもらえればいい。」
「・・内調に工作された死体を捜すなんて、大量殺傷事件を見つけるみたいに簡単にはいかないわ。」
「大丈夫だよ。優秀なキミの情報網なら。」
 仁井は彼女のささやかな動揺を読み取ろうとした。しかし彼女の引きつった笑いは戸惑いなのか、「優秀な」という形容を皮肉にとっての不快感なのか、判別不能だった。
 承知しました、とだけ答えて、彼女は背を向けた。ドアのノブに手をかける彼女の背中に、結局教えてくれないの?と聞いた。
「何を?」
「キミの思う『愛』。」
 黄島女史は振り返らずに、私ロマンチストじゃないから、と答えた。
 廊下へと踏み出した彼女がドアを閉める直前、短い台詞が飛び込んだ。
「『役に立つこと』かしら。そんな事しか私には思い付かないわ。」

  ◇◇◇ 

(『役に立つこと』ねえ・・。)
 廊下を歩き去る彼女のヒールの音を背景に、仁井は思いを巡らせた。彼女は誰の役に立とうとしているのか。そのあたりが問題だった。戒爾か、自分か、それとも他の誰かか。
 仁井は卓上の専用電話を手に取った。記憶している番号にダイヤルする。
「紅孩か。ボクだ。ある女性を張ってくれ。黄島恵美。ああ。キミ達が被験体を奪われたあと、そっちに怒鳴り込んだ彼女さ。彼女はプロだ。それなりの人間を付けてくれよ。」
 不満気な紅孩の反論には取り合わず、用件だけを告げるとあとは適当にお茶を濁して切った。彼の部下が被験体を逃がした過失は大きい。幾ら働いてもらっても取り戻せないくらいだ。

 受話器を本体に戻すと、仁井は煙草を咥えたまま指先で細かくデスクを叩いた。
 サイは投げられた。
 頼りない紅孩の一味だ、黄島女史に気付かれないとも限らない。それならそれで良い。その時、彼女は仁井の意図を知るだろう。その後に彼女はどう動くのか。それにもし紅孩に気付かず戒爾を探し当てたら彼女はどうするだろうか。そしてあるいは、既に戒爾の居場所を彼女が知っているとしたら。
 誰がどう動いても面白い事になる。
 それに加えて。
 内調、そして軍部が戒爾を狙う可能性がある。どちらもプロ中のプロだ。黄島女史が戒爾を見つけて張り付けば、多少の牽制にはなる。部外者に彼を殺されるのは不本意だ。どうしてもそうするしかないというなら、戒爾は仁井自身の手で逝くべきだと思う。細い目を更に細めて仁井は天井に煙を吐いた。
(ね。そう思わないか?)
 行方の知れない彼に問いかけた。YESと彼なら答えるような気がした。

〜本編へ〜


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